サッカー日本代表監督の就任会見に臨んだオシム(右、2006年7月)
サッカー日本代表監督の就任会見に臨んだオシム(右、2006年7月)

 イビツァ・オシムが亡くなってから、ほぼひと月が経過した。彼が日本で暮らしたのは病後の療養生活も含めて、2003~09年の6年間に過ぎないが、今でもサッカー界の枠を超える彼の知見あふれた言葉が流通している。ただ、語録として残されることには、大きな違和感がある。ここでは、言動が一致したオシムのとりわけ心に残った振る舞いを書き残して悼みにかえたい。『オシムの言葉』の著者で、ノンフィクションライターの木村元彦さんが綴る。

【写真】日本代表監督時代のオシム氏

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『オシムの言葉』は誤解をされやすいタイトルだが、語録本ではなく、ユーゴスラビア紛争を生き抜き、すべての民族から敬愛された人物のノンフィクションである。ただのアフォリズムではなく、その言葉自体が、実際の行動に裏打ちされたものであることで、はじめて大きな説得力を持ち得ている。

 自ら体験したユーゴ紛争を鑑み、オシムはメディアの持つ危険性を常に警戒していた。来日1年目にあなたが記者に対して発するいささか謎めいた言葉の源には何があるのかという問いに対して、「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから」。

 自分が発信するワードだけではなく、報道に対するリテラシーも高度なものがあった。

 オシムが日本代表監督2年目の07年、FWとして招集していた我那覇和樹(当時川崎F)がドーピング冤罪(えんざい)に巻き込まれた。脱水症状を起こし、点滴治療をクラブの医務室で受けたが、サンケイスポーツの記者がこれを「我那覇が秘密兵器としてにんにく注射を打った」という記事にした。医療行為の点滴と疲労回復のにんにく注射はまったく用途が異なり、事実がひとつもない誤報であったが、記事を見たJリーグ側がこれはドーピングだと騒ぎ出した。

 我那覇本人は事情聴取で事実を述べれば、潔白は証明されると信じて、聴聞会に臨んだ。しかし、すでにドーピング違反は既成事実化されており、点滴を施した後藤チームドクターも抗弁したが、50分で聴取は終わってしまった。この翌日に各新聞はいっせいに、我那覇が規定違反と認定されたと書き連ねた。事情聴取で後藤ドクターが訴えた脱水症状に対する点滴治療であったことは一行も記されなかった。

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