中曽根内閣が続いた80年代は、まさに日本経済が世界の中で輝き、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた時期だった。

 日本的経営が非常にうまくいった。うまくいきすぎた。日本から米国へ“集中豪雨的”に輸出をするわけね。一方、米国はレーガン政権下で、貿易赤字と財政赤字がふくらんだ。経済が非常に苦しくなった。

 当時はレーガン大統領も、英国のサッチャー首相も自由市場経済を掲げた。つまり、グローバリズムね。それまでの経済は自国のことを考えるだけで済んでいたけど、経済が国境を超えて世界規模で動くようになった。

 すでにソ連(現ロシア)は経済が弱体化していた。米ソ冷戦ではあったが、レーガン大統領はソ連の次の標的は、日本だと考えた。日本からの集中豪雨的な輸出によって、大きな貿易赤字を抱えていたから。

 なぜ、日本が米国に大量に輸出できるのか。それは円が安いからだと。それでレーガン政権は「円高にしなかったら日本を潰す」と迫るわけね。当時の為替レートは1ドル=240円台だったけど、200円まではしょうがないと日本は受け入れた。これが竹下登・大蔵(現財務)大臣を米国に呼び寄せて結ばせた「プラザ合意」ね。ところが、あれよあれよといううちに1ドル=150円台になって“円高大不況”に陥った。

◆米国依存の安保 貿易でも受け身

 米国はそれでも手を緩めなかった。日米の貿易摩擦が激しくなった80年代末には、いわゆるスーパー301条(不公正貿易の完全撤廃を目的とした通商法301条)などでね、米国は関税の引き上げや輸入制限をかけてきた。この貿易不均衡をめぐる交渉を、日本では「日米構造協議」なんて言ってるけど、まったくのインチキ。米国の当初のねらいは、貿易の主導権を取って日本の壁をぶち破るってものだったんだから。

 スーパー301条による“報復措置”で、日本は結局、大不況へと向かう。中曽根内閣の末期に、日本経済は“大バブル”となり、その後の経済悪化へとつながった。

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