中将:ヒット曲は少ない時期でしたが、1990年代の衣装や演出にも独特の凄みがあったと思います。特に「HELLO」、「ACTバスター・キートン」あたりのお仕事は40歳代の沢田さんの魅力を大きく引き出していると思うのですが、当時を振り返っていかがでしょうか?

早川:1990年代半ばの沢田さんは激痩せしてましたよね。年齢はあんまり気にしてなかったけど、細いと似合う服の範囲が広がるからね。短いセーター着ておへそ出したり、当時の流行を取り入れてながら、ただただ格好良く仕上げようと思ってたんじゃないかな。

中将:加瀬さんが1984年をもってプロデューサーから退きますが、前後で早川さんのお仕事の仕方に変化はあったのでしょうか?

早川:やっぱり大きく変化してますね。衣装の制作と写真撮影は僕の管轄でやるけど、テレビの衣装も僕がイチオシのものと沢田さんの選ぶものがだんだん違っていきました。沢田さんがセルフプロデュースという前提で、ステージなども分野ごとの分業制になっていきました。

中将:早川さんと沢田さんとのご関係ってどんな感じなのでしょうか?

早川:僕と沢田さんってほとんど話しないんですよ。昔、加瀬君がいた時に1、2回一緒にお酒飲んだことはありましたけど、最近は「こんにちわ」と「さよなら」くらいなもんで。

 僕は仕事についてベラベラと説明するのが得意じゃないから、あらかじめ絵に描いていくんです。それを見てもらえば説明しなくても大丈夫な状態にしていく。仮縫いの時も沢田さんは身動きせず鏡を見ていて、気に入ってくれた時は黙ったままだし、ダメな時は「これは嫌だな」とポツっと言うくらい。こちらも「どこがどう嫌なの?」みたいなことは聞かないしね。こんなやり方ができるのは、とても僕には合ってました。

中将:2001年以降、沢田さんはご自分の写真をCDジャケットに使わなくなりました。この方針転換についてはどう思われましたか?

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一番うまくいったと思うのは「カサブランカ・ダンディ」