作家・片岡義男さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『花街の引力 東京の三業地、赤線跡を歩く』(三浦展、清談社Publico 2200円・税込み)を取り上げる。

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 花街、という言葉は三業地あるいは二業地を意味するものとして、もっともきれいな言葉だ、と僕は判断している。広辞苑は花街を次のように定義している。「料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べている町」。飲んで食って歌って、最後に遊女と性的な関係を「遊ぶ」場所が、花街だった。色街とも言う。色には、遊女という意味がある。花街は男たちの街だった。

「近代東京における花街の成立」という二〇〇八年に発表された論文から、東京区部の二業地、三業地、と題した図面が、本書に引用してある。それを見ると、花街は東京のいたるところにあったことが、ひと目でわかる。

 三業地とは、芸妓屋、料理屋、待合の三業者が揃った街のことで、料理屋に芸妓屋ないしは待合のいずれかだけがあるのは、二業地と言った。いずれも警察が指定する制度だったようだ。芸妓屋、つまり広辞苑の言う芸者屋は、置屋とも呼ばれた。

 花街の客である男たちは、東京のいたるところにいた。手近で遊びたい、という男たちの欲求と、これをやれば儲かるのではないか、という業者たちの願望が一致すれば、そこに花街が生まれた。本書では、境界の街、近郊、山手線界隈、都心、下町、郊外と東京を分け、合計で四十三の花街を解説している。

 いま東京に、花街はない、と言っていい。戦後の名残の最後の部分を、断片的に拾い集めることは、しかしまだ可能だ。一九四六年に公娼制度は廃止されたが、体を売る女性たちは個人経営の小規模な飲食店の従業員としてそのまま残った。そのような店が集まった地区を、警視庁が地図の上で赤い線を引いたことから、赤線地帯という呼び名が生まれたという。特殊飲食店街とも呼ばれた。一九五二年の東京では、四千五百人近い女性たちが娼婦として仕事をしていた。そのような店の名残の最後の部分が、売春と直結して、まだ残っている。

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