「77年に広告会社の企画で、フィジーやイースター島へ池田満寿夫さん、阿久悠さん、横尾忠則さんらと3週間、旅行したんです。その間、日本と連絡は一切取らず、仕事は全く切り離していました。日本にいたら、そんなことはできません。でも仕事を忘れて頭を空っぽにしたことで、無心になれた。それがベースになってこの4作品が生まれたのだと思います」

 酒井さんは「プロデューサー業とは『イチゴ大福』」と例えたことがあった。

「『混』なんですよ。酸っぱいモノと甘いモノでは合わないようですが、やってみたら意外に合う。『混』なんです。テーマにしても題名にしても、意外なもの同士を組み合わせたとき、訴求力が生まれる。それがプロデュースの妙味ですね」

 酒井さんは物腰柔らかく穏やかだが、仕事にはとても厳しかった。

 山口百恵のサードシングル「禁じられた遊び」(73年)から80年に引退するまでの全作品のディレクターで、酒井さんとしばしばコンビを組んだ音楽プロデューサーの川瀬泰雄さんが、こう振り返る。

「常に最高を目指すので、妥協はしなかったですね。少しでも物足りなさを感じたり、当人にそんな気がなくても酒井さんが『手を抜いた』と感じたりしたら、どんなに売れてるミュージシャンでも、有名な作詞家、作曲家であってもスパッと切っていくんです」

 酒井さんと川瀬さんのコンビで、86年7月に「唇に悪夢」をリリースした元アイドル・原江梨子(現・原めぐみ)さんもこう証言する。

「この作品のジャケット写真を、人気カメラマンの山岸伸さんが撮ったんです。ところが酒井さんの『メイクがよくない』との“鶴の一声”で急きょ、撮り直しになりました。誰が見ても、特に問題があるとは思えなかったのですが、酒井さんの感覚では許せなかったんでしょうね」

 現場で関係者と緊張関係を生むのは、一顧だにしなかった。

「イエスマンでもダメなんです。根拠があって反論すると、納得したら素直に認める。むしろ、反発したり、ツッコミを入れたりする人と、よく仕事をされていました。長く続いたのが、阿木燿子さん、昨年亡くなられた筒美京平さんらで、十指に満たないんじゃないでしょうか」(川瀬さん)

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「コロナなんかに構っている暇はない」