小林亜星さん死去「医学部からバンドマン、『北の宿から』、『寺内貫太郎一家』…」本人が語ったマルチ人生 (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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小林亜星さん死去「医学部からバンドマン、『北の宿から』、『寺内貫太郎一家』…」本人が語ったマルチ人生

浅野裕見子週刊朝日#お悔やみ
小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1932年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍した。(撮影/小暮誠)

小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1932年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍した。(撮影/小暮誠)

「北の宿から」などを手がけた作曲家で、「寺内寛太郎一家」にも主演し、黒縁の丸メガネの“巨漢”タレントとしても人気があった小林亜星さんが5月30日に亡くなっていたことがわかった。享年88歳だった。死因は心不全で5月30日に容体が急変し、そのまま病院で亡くなったという。小林さんは週刊朝日2018年9月28日号の「もう一つの自分史」に登場。それまでの人生を振り返った貴重なインタビューを再録する。

【写真】「寺内貫太郎一家」で共演した小林亜星さんと浅田美代子さん
*  *  *
 高校(旧制慶応義塾普通部)の同じクラスに冨田勲君(作曲家)と林光君(作曲家)がいたんですよ。作曲家になったやつが同じクラスに3人もいたなんて。変なクラスだよね。休み時間になると3人で音楽談議。コーラスの曲を作って文化祭で発表もしました。結構評判がよくてね。それが悪かったんだな。気分良くてね。味をしめちゃった。

――日本レコード大賞を受賞した都はるみの「北の宿から」をはじめ、小林亜星の曲を一曲も知らないという人は、いないだろう。意外なことに、作曲家になる一本道を歩んできたわけではなく、何度か横道にそれた。

 うちは祖父が医者だったから大学は医学部へ行けと。ろくに勉強もしない落ちこぼれだったから大変ですよ。大学は高校3年のときの成績で進路が決まるんです。それで1年間猛勉強。進学試験のとき、15分ぐらいで答案を書き上げて教室を出ちゃった。勉強しすぎちゃったんだな。背中に同級生のため息を聞きながらね。まったく嫌みなやつだよね(笑)。

 それで医学部へ入ったはいいけど、もう俺はやることはやった、っていう気になっちゃってね。ところが、大学の医学部っていうのはいろんなところから頭のいい人がきている。まるで太刀打ちできない。

 1、2年生の教養課程のうちは医学的な授業もないし、好きな音楽ばっかりやってました。子どものころ、木琴を習ってましてね。それを生かして、ビブラフォンを演奏してジャズバンドを組んだ。

 そのころ、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島で戦ってきた米軍兵たちが、休暇になると日本の基地まで引き揚げてきて疲れを癒やすんですよ。おかげで基地内のナイトクラブは大忙し。僕たちみたいなへたくそなバンドでさえ、引く手あまたでした。横浜にWAC、Women’s Army Clubっていうのがあったんです。軍属の女性専用のクラブで、お客さんのほとんどは従軍看護婦だったな。あとは軍人の奥さん方ね。そこの専属バンドになっちゃって。サラリーマンの初任給が8500円ぐらいの時代に、一晩で3千円もらえたんですよ。

 結局、途中で学部を変わってね。経済学部に移って、卒業するまで親にはバレなかったな。


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