以前セトウチさんは生まれ変ってもまた女流小説家と書いておられましたが、僕は死ぬ前から今の職業に飽きています。芸術にはゴールはないですが、ゴールに着くまでのプロセスが面白いので、まあそれを愉しんでいたってわけです。人間に輪廻(りんね)転生があるのは、百歳たらずの人生で転生して、また違う時代と国と性も変るのが宇宙の摂理で、生と生の間を死でつなぐという発想は誰が考えたのか、多分神でしょうね、まるで駅伝のタスキ渡しみたいにタスキが魂のように別の人間に転生して、また短い人生を走る。だから、今生と来世は別の人間になって、やったことのない人生をやるのが一番いいことで、来世も小説家なんていわないで、今生で目いっぱい小説家をやるだけやって、思い残すことなく、来世は画家にでもなって下さい。

 また人間の肉体寿命は限られていますが魂寿命は永遠だから、今生が無理なら百歳は来世に廻してもいいんですよ。あんまり、百歳、百歳というと、そこを生のリミットにしてしまいます。だから、年は忘れて下さい。他のことは呆けていても、「百歳」だけは呆けないなんて、「耳無し芳一」の宙に浮いた耳みたいで怪談じみていて怖いですよ。

 でも、そうか、今のセトウチさんから「百歳」を取ってしまうと、逆にペットロスみたいになって、かえってストレスになると困りますね。なんだか僕はおばあちゃんに孫が説教している気分になってきました。そんな小うるさい孫は「ジャカマシイ!」と言って無視して下さい。

 それは別として、北斎も「百歳宣言」して、百になれば宇宙の真理に到達すると考えていました。やっぱり「百歳」か。

 では次回をお待ちしています。

■瀬戸内寂聴「ヨコオさんは、不思議な存在ですね」

 ヨコオさん

 あなたは、長いつきあいなのに、私のことちっとも理解していないみたいですね。今の私の関心事が「百歳」なんて、およそ的外れもいいところです。色んなメディアで私が「百歳宣言」をして騒いでいるとおっしゃってますが、一九二二年(大正十一年)生(うま)れの私が、現に「百歳」になっていることは、れっきとした事実なので、話が歳のことになれば、そこへ落ち着くのも、まあ、御挨拶(ごあいさつ)というところでしょう。私はあなたのように天才でもないのに、天才が好きで憧れています。天才は、必ず、若死(わかじに)です。九十歳の天才なんて、何だか薄汚く感じます。

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