※写真はイメージです (GettyImages)
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 ライター・永江朗氏の「ベスト・レコメンド」。今回は、鷲田清一著『つかふ 使用論ノート』(小学館/2000円・税抜き)を取り上げる。

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「あいつ、つかえねぇなあ」

 嫌いな言葉だ。言われる身になってほしい。だが、人を使う=道具として扱う風潮が広まっていると感じる。働く現場などでは顕著だろう。

 鷲田清一『つかふ 使用論ノート』は、かように痩せ細ってしまった「つかう」ということについて、いまいちど捉えなおそうという長編評論である。

 使う、遣う、仕う。「つかう」は多様だ。道具を使うこともあれば、気を遣うこともある。主人に仕えているように見せながら、じつは主人を操る(使う)下僕もいるかもしれない。

 柳宗悦の《用の美》やレヴィ=ストロースの《器用仕事(ブリコラージュ)》、さらには動物を飼うことや、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』に描かれる過酷な労働、そして「使い棄て」へと、哲学者の思考は果てしなく広がっていく。読む方は「ああ、こんなこともあるのか」と発見の連続。まことにスリリングな体験で、思考の冒険とはこういうこと。

 いちばん感動したのは第III章「使用の過剰」。道具を使い込むうちに、使う人間の身体や意識が変化する。また、それを他の目的に転用したり借用(見立て)したりということも生じる。それは人間が道具に影響され、触発されているともいえる。人間と道具の関係は一方的なものではないのだ。包丁と料理人、鋸と大工の関係などについての部分はちょっと興奮する。

 実は昨年の秋、脚にケガをした。ギプス、固定装具、松葉杖など、回復に従って使う道具が変わっていき、身体との関係をつくづく考えさせられた。いまはステッキが体の一部のようになっている。こんど、仕込み杖でもあつらえようか。

週刊朝日  2021年2月26日号