半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「池田満寿夫と熱く交わした、ぜんざい論争」
セトウチさん
ムカシ、池田満寿夫が生きていた頃、箱根の温泉旅館で対談することになりました。彼は僕より二歳年長で初対面でした。彼は版画家、僕はまだグラフィックデザイナーの頃です。さて、何から話そうかということになって、いきなり芸術論というよりも、先(ま)ずお互いの性格が表われ易(やす)い食べ物の話から、どうですかと編集者。
グルメではない僕は食べ物音痴なので料理の話はニガ手だ。ぜんざいの話ならできるけどと言うと池田さんも、「俺もぜんざい大好きだ」と、いきなり話が合ってしまった。でも、僕はツブあんでないとぜんざいとは言わない、と言うと彼は、コシあんこそぜんざいだと言う。コシあんはぜんざいではなく、おしるこだと反論すると、彼は「おしるここそがぜんざいだ」と主張し始めた。
そこでぜんざい論争になってしまった。彼は長野出身で、ツブあんを否定する。僕にすればコシあんこそ否定的対象だ。コシあんは口の中でもコシあん、胃袋に入ってもコシあん。それに対してツブあんは、口の中でツブあんだけれど噛みくだいて胃の中に流し込んだ時にはコシあんにメタモルフォーゼして、二度感触が味わえる。まさに芸術ではないか、と僕。池田さんは最初から最後まで変(かわ)らないのが伝統だと言い張る。僕はあくまでもブルトンのシュルレアリスムで応戦。池田さんの信奉するピカソも、君の作品だって変化するのに、変化しないコシあんが好きだというのは、君の芸術観は不正直過ぎると再び突っ込む。
彼は僕のツブあんがコシあんに変化するのは一貫性がないと言う。それに対して僕は一貫性に固執するその態度は権威主義的で人間としても面白味がない、作品はコロコロ変化する多様性こそ現代社会に対応しており、固執するのは停滞の証拠だ。