倉本聰が語る石原裕次郎の幻の映画企画「船、傾きたり」シナリオ90枚 石原プロ解散 (1/5) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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倉本聰が語る石原裕次郎の幻の映画企画「船、傾きたり」シナリオ90枚 石原プロ解散

佐藤利明週刊朝日
週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」

週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」

石原プロモーション第1作映画「太平洋ひとりぼっち」(1963年)に主演した石原裕次郎=(C)日活

石原プロモーション第1作映画「太平洋ひとりぼっち」(1963年)に主演した石原裕次郎=(C)日活

 1月16日に解散した石原プロモーション。創設者で戦後の大スター・石原裕次郎は、病魔に襲われた晩年に盟友・倉本聰さんと映画のシナリオを作っていた。週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」では、倉本さんのインタビューを中心に「裕次郎が撮りたかった映画」の特集記事を掲載した。そのダイジェストをお送りする。

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 空前の「裕次郎ブーム」が続く中、石原裕次郎は「自分が撮りたい映画を撮る」という信念の元、1963(昭和38)年1月16日、石原プロモーションを設立した。裕次郎28歳の時である。その頃、裕次郎と同年同月生まれ、3日違いの誕生日の倉本聰も28歳になったばかり。プロデューサーを務めていたニッポン放送を退社して、裕次郎の育ての親でもある日活のプロデューサー・水の江滝子が設立したプロダクション「水ノ江企画」に専務として入り、裕次郎と交流を持ち、脚本家としての道を歩み始めた。

 独立してテレビの脚本家として脚光を浴びていた倉本は74年、NHK大河ドラマ「勝海舟」降板を機に、東京から札幌市に移り住んだ。倉本のマンションの隣に「海陽亭」の札幌支店があった。海陽亭といえば、小樽で勤務していた裕次郎の父・潔のなじみの料亭で、慎太郎・裕次郎兄弟も、幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。ある日、札幌の海陽亭で裕次郎とばったり会った倉本は、明け方まで日本酒を痛飲しながら、映画談議をした。

「日活映画の裕ちゃんに対する扱いっていうのは、映画界がそうだったんですが、専属のスターが演じるヒーローは、役の上では絶対死なないんです。しかもだれにも負けない、常にトップにいるんです。そのとき『高倉健さんがいる東映のことを考えてほしい』ってぼくは言ったんです。健さんのキャラクターには『頭が上がらない人』が必ずいる。例えば嵐寛寿郎の大親分が殺されて、その人のために立ち上がる。つまり健さんには上がいるんです。役作りの上で、尊敬する、リスペクトする人がいることで、その人のために一生をかけることが、ヒーローのキャラクターを光らせるんです。それが、裕ちゃんにはなかったんです。おふくろさんとかに対する愛情も日活で出演している映画にはほとんど出てこないけど、家庭的なものはやる気がないのか、と問い掛けたんです」

 裕次郎は「いや、そういうものもやる気があるんだ」と答えた。その頃、倉本は最愛の母を亡くし、さまざまな思いが去来していた。それが、田中絹代が萩原健一の母を演じたドラマ「前略おふくろ様」(NTV)へつながっていく。


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