小学校に上っても、いつも教室の後ろの壁に、私の描いた絵が、他の上手な人の絵と一緒に並んではってありました。その頃の小学校では、絵のお手本の本があって、それを写すのが殆(ほとん)どでした。たまに写生に行くこともありましたが、見本の絵を写すことの方が、多かったのです。この見本の絵をまねて描くのが、私は得意で、いつも描いた絵は、教室の後ろの壁にはられていました。写生は、どこから描いていいかわからなくなり、うまくいきません。

 ただし、誰かの顔を描くと、それはうまく描けました。将来、肖像画家になろうかなと、ちらと、考えたこともありました。という次第で、綴(つづ)り方の方が断然上手だったけれど、絵もそれほど下手とは、一度も思っていなかったのです。ところが、ヨコオさんが、初めて寂庵へ見えた時、よせばいいのに、私はスケッチブックを取りだして、天下の絵の天才の前にさしだして見て貰いました。面倒臭そうに、スケッチブックを開いたヨコオさんは、一目見るなり、後ろへひっくり返るほど背をのばし、ふき出しました。

 スケッチブックには、コーヒー茶碗と皿の絵が描いてあります。

「どうしたら、こんな絵が描けるの? 不思議だなあ、これって!」

 ヨコオさんは、顔を赤くして笑いころげています。

 私はどこがおかしいかさっぱりわからず、困った表情をしていました。

 以来、ヨコオさんは二度と私の絵を見てやろうとは言いません。私も、この前の手紙に書かれた根から上に描く花の絵以来、もうヨコオさんに絵は見せないことにしています。

 仏像の木彫は、彫刻の老師匠が、最初、習いに行った日に、刀を持った私の手つきを見て、

「ほう、形になっている。今まで誰に習った?」

 と言われました。私の父が木工職人で、父の弟子がいつも十人くらいいる家に育ったと言うと、老仏師は、深くうなずいてくれました。木の中に仏さまがいらっしゃる。それにお出ましていただくように、外から余分の木を彫り捨てるという方法を教わりました。

 これは何の苦もなくスイスイ彫れました。一番よく出来た地蔵を、展覧会で盗まれて手許(てもと)になく、くやしくてなりません。

 後、石の地蔵も彫るようになりました。東北の天台寺に、いくつか、私の彫った石の地蔵があります。

 近頃、原稿を書くと、肩が凝って体じゅうが痛くなりました。そろそろ、絵だけ描いたり彫ったりして、のんびり暮らしたいナと、思うようになりましたよ。

 では、またネ

週刊朝日  2020年7月31日号