次に見たのは、仏像の木彫です。素人がいきなり彫れるようなものではないです。何もない木片を外から削って、中に仏像が存在していることを想定して、彫っていくのです。僕は100%自信がないのに、セトウチさんはその100%に挑戦して見事に仏像を彫りあげたのです。この時、僕はやっぱり信仰の力を確信しましたねえ。ただ口をアングリ開けただけで何も言えません。当のセトウチさんは首をすくめて、恥ずかしそうに小さくなって、ニコニコしておられる、またこの態度がシャクにさわるんですが、もう天才です。文学のことはわからなくても芸術のことは少しくらいわかる僕の、この仏像と対峙(たいじ)させられた時のショックは本当に、仏様っているんだと思いましたよ。

 セトウチさんは何んでも本格的に習おうとする人で、次は陶芸。これも本格的に窯まで買って。これも見に行きましたよ。小さいお人形さんのようなものが沢山(たくさん)できてました。木彫に驚いているので、これは社交辞令的に驚いてみせました。そして、その次は来る人を片端からつかまえて、髪の毛だけを描く。誰が先生だか知らないけれど、相手を目の前に座らせて、顔などどーでもいい。髪の毛だけです。僕も描いてもらったというより描かされました。ペンで細密描写です。まあ何んともお化け的で気持(きもち)の悪いものです。「髪の毛だけだけど、ヨコオさんって、わかるでしょ」。「ハイ」。では来週。

■瀬戸内寂聴「『絵は下手でない』内心思っていたのに」

 ヨコオさん

 私の絵を最初に見てもらったのは、花のない花の絵ではなくて、おつきあいが始まって間もなく、ヨコオさんが仕事のついでに京都の寂庵へ初めて来られた頃のことでした。

 私は絵の天才が見えたのだから、こんな際に自分の下手な絵を見て貰(もら)って、批評をいただこうと思いたち、安っぽい画用紙に、描いていた絵を、お見せしたのでした。自分の絵が上手だなどとはいささかも思っていなかったけれど、幼稚園の時、飛行船の絵を描いて、先生にほめられて以来、絵は下手ではないと内心思っていました。

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