それでもなおかつ現世の何かを引きずって逝った場合は、死にきれてないということになりますね。いわゆる成仏できてないということです。ここまで書いてきて、ふと思いました。今、身の廻(まわ)りにある物にいちいちノスタルジーや未練を持つ必要がない。こっちにあるものは向こうから見れば、全部剥製です。剥製にしか見えないということです。家族、友人、知人、家、アトリエ、作品もみんな剥製品です。本物が見たければ、向こうにある本物を見ればいいのです。向こうには剥製品はありません。

 じゃ、こっちにあるものはそのままにして、誰かに処分されても、どーってことないんです。この考えは、こちらにいる現世的な僕の考えではなく、自分が向こうにいる気持ちになって話しているのです。年を取るとこっちと向こうの両方で生きていくことになりますね。新しい発見です。では。

■瀬戸内寂聴「死とは、永遠の世界に生き返ることかも」

 ヨコオさん

 私はついに満98歳になりました。数えでいえば99歳。100歳に、もう指一本というところです。

 きんさん、ぎんさんの、最期の頃の顔を思い出してみても、あの二人は若々しくて、あんまり年寄臭くはなかったですね。

 毎朝、起きたらすぐ、ざぶっと風呂に入るので(石鹸[せっけん]で顔を洗ったりはしない)自分の裸は見慣れているせいか、さほど老人らしくなったとも思わないで過ごしていますが、晩年の宇野千代さんのように、素っ裸で、ヴィーナスの生まれてきた姿勢を、鏡に映すほどの勇気は、全くありません。

 何人か身内の死体を見てきましたが、美しい死体など一つもありませんでした。ただし、死顔というのはどなたも生前より美しく、清らかなのはどういうわけでしょう。お坊さんや牧師さんに拝んで貰(もら)わなくても、死顔は清らかになるようですね。

 私はまだ醜い死顔に逢(あ)ったことはありません。こんなことを、くどくど書くのは、自分の死がいよいよ近づいてきたと感じるからです。

 今度のコロナで、誰にも逢わない日時が与えられたので、このまま、誰にも、お礼もお詫(わ)びも言わないまま、死んでゆくのもいいものだなと、思ったことからの発想です。

 寂庵の木の門は閉めていても片掌で押せば、すぐ開くような頼りないものですが、今度のコロナの閉門は、見事に人の訪れをこばんだ形で、ひっそり閑としていました。

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