昔の嵯峨野は、こんな風に、人も獣も通らない閑(のどか)で静かな所だったのでしょう。寺もなく、今のように朝早く托鉢(たくはつ)の僧の声などもなかったのでしょう。そのかわり、猪(いのしし)や猿の子が、ころころ道ばたに転がり出ていたことでしょう。私が棲(す)みはじめた四十六年ほど前には、足許(あしもと)に雉(きじ)の子がうずくまっていたり、畠(はたけ)の奥から猪の子がひょっこりと出てきたりしたものでしたが、今は畠がなくなり、民家がびっしり建って、そんな風情はどこにもなくなりました。

 これ以上、嵯峨野の昔ながらの風情が消えてしまわない間に、あの世にさっさと旅立ちたいものです。

 もう気の利いた小説も書けそうにありません。あるだけの力は出し尽くした気がします。美味(おい)しいものも充分(じゅうぶん)いただきました。ただ、今、死ねば、海老蔵父子の襲名がみられないのが気がかりです。

 あの世で果(はた)してなつかしい人々に逢えるかどうか? 私はさほど期待していません。誰もまだあの世の映画を見せてくれないので。

 行って見なければ、どんな所かわからないのが、真実です。案外、ただ真暗(まっくら)で、何もない処かもしれない。ヨコオさんの想像力の世界では、あの世もくっきり描けているのでしょう。でも、それを見せてほしいとは思いません。あの世のすべてが不問のところが、せめてもの人間に残された夢なのかもしれない。あの世に行っても、ヨコオさんと私は、またずっと仲よくしましょうね。ボケる時はいっしょにボケましょう。人が死ぬというのは、永遠の世界に生き返ることなのかもしれませんね。私が少し早く行って、陽当(ひあ)たりのいい、草のやさしい場所を見つけて、ヨコオさんを待っていますよ。

 そうだ。甘いまんじゅうを大皿一杯買っておきます。では、またね。おやすみなさい。寂

週刊朝日  2020年6月19日号