全く人に逢(あ)わず、食べて寝て、本ばかり読んでいるので、まさに極楽の暮しです。

 寂庵のスタッフは手をよく洗い、誰かが買ってきた消毒液を丹念につけています。手もろくに洗わず、消毒液をつけたことのないのは、私だけです。

「みんながこれだけ神経質に予防してるのに、庵主さんひとりが手抜きで、コロナに取り付かれたら、大事件ですよ」

「そうだ、そうだ」

 と、口々に文句を言ってたけれど、そのうち面倒臭くなったのか、誰も文句を言わなくなり、気がつくと、いつの間にかみんな私のだらしなさに服従していました。私の子供の頃は、怖い伝染病は、エキリとチブスでしたよ。それに染ると、必ず死ぬと思い込んでいました。

 偏食のため、よく病気になりましたが、ヨコオさんと同じように、子供の頃から女学校の生徒になっても、私はよくけがをしました。

 一番自分でも怖かったのは、四歳くらいの夏、誰もいない台所で、板の間にころがっていた水瓜を見つけ、母がそれを切ってくれる時のきりりとした爽快さを思い出し、自分の顔よりずっと大きな水瓜を転がして板の間の端まで持ち出し、包丁立にあった大きな包丁を取り、母がしていたように、水瓜の上を左掌で押え、右掌に握った大きな包丁を勢いよく上から振り下ろしました。水瓜の真上を押えていた私の左手の人さし指に、平たい包丁の刃が落ち、私はギャーッと泣きわめきました。母が飛んできた時、私の小さな人さし指は、真中あたりでブランとちぎれかけていたのです。あわてた母が、そのちぎれかけた指を、エイッとくっつけ、泣きわめく私を抱きあげて医者へ送り込みました。それ以来、私の左の人さし指は真ん中あたりでちょっと曲がっています。今はすっかり忘れていますが、冬など、しくしく痛んだものでした。

 学校に上がってからも、金棒から落ちたり、転んでけがしたり、年じゅうけがをして、町内の骨つぎ医者に駆け込むことが多く、その医院の酢の匂いのぷんぷんする薬をつけ、包帯をされていたものです。それでも懲りずに危ないことばかりして、けがをしていました。あと一か月半で満九十八になる私は、庵の中では杖もつかず、歩いていますが、もうけがをするような激しい行動は出来なくなりました。今は老衰のため、動作が鈍くなり、よたよたとしか歩けません。ひたすら転ばないように注意しています。ああ、けがを恐れず、はねまわっていた昔々がなつかしいこと。

 ヨコオさんも、けがをしないようにね。では、また。

週刊朝日  2020年4月10日号