縁は深くなる。

「優作さんが初監督した映画『ア・ホーマンス』に呼んでいただいて、そのときもなぜか『いいね~、いいね~』って褒めてくれたの。何がよかったのか? まったくわからない(笑)。当時の自分を思い返すと、いかにも悪役という型にハマった芝居しかできてなかったと思う。でもすっかり優作さんに感化されたんだよね」

 自分なりの演技への思いが滾(たぎ)り、剣友会もやめた。そうしないと、制作スタッフからは“アクションの人”という目で見られるからだ。

「やめても殺陣師の横のつながりがあるから、仕事の電話がかかってくる。それを『すみません、その日は仕事で』って嘘をついて断り続けたら『生意気になったな』なんて陰口を叩かれたりもしたね」

 役者の仕事はほとんどない。鬼怒川の「ウェスタン村」でバイトをして食いつなぎ、6畳一間のアパートの家賃を払うのもやっと。本当は受けたい仕事もあったが、意地を貫いた。

 振り返ると、20代半ば前のこの頃が俳優人生で一番の岐路だったと感じる。

「あそこで折れたら、今の俺はなかったかもしれない。暗中模索しながら一人で歩き続けて……役者っていうのは孤独な仕事だと思ったよ」

 自分で宣材写真やプロフィルを作って制作会社を回り、オーディションがあったら飛んでいった。そんな生活を続けるうちに出会ったのが北野武さんだった。北野さんの初監督作品「その男、凶暴につき」のオーディションで選ばれ、初めて画面いっぱいアップになるような役をもらった。25歳の頃である。

「アップの嬉しさもそうだけど、なにより嬉しかったのは北野監督が、有名、無名、関係なく接してくれたこと。俺たちにも『あんちゃんよ』って気さくに話しかけてくれて、一人の役者として扱ってくれた。お互い下町の出で、職人の倅ってことも重なり、勝手な親近感が湧いてきて。武さんも『あんちゃん、次の作品にも呼ぶからよ』なんて言ってくれてさ」

 次の作品では呼ばれなかったが、3作目「あの夏、いちばん静かな海。」では北野監督から直接声がかかった。

 そこからはおっかけ状態に。時間があれば北野監督に連絡して番組収録の見学に押しかけた。アメリカで映画を撮るという噂を聞きつけ、母親に50万円借金して渡米。せっかくだからとグレイハウンドバスで大陸横断旅行をしながら一行の到着を待った。その珍道中も自叙伝の読みどころだ。しかし、普通そこまで突っ走れるものだろうか。

「もう、監督としても男としても惚れ込んでたからね。この人についていきたいと思った。あと……俺、80年代の終わりに親父と松田優作さんを亡くしたんですよ。二人とも、もっとたくさん話をしとけばよかったって心残りがあって。今度大好きな人ができたらとことん行こうって決めてた。それは大きいね」

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