選手、監督として輝かしい成績、戦績を積み上げた野村さん。江本さんが印象に残っているシーンがある。

 1973年パ・リーグのプレーオフで野村さんがプレーイングマネジャーの南海は阪急ブレーブスと激突。当時、パ・リーグでは常勝だった
阪急に対して南海は互角の戦いを重ね、2勝2敗で迎えた最終戦、9回だった。野村さんが日本球界に取り入れた、先発、中継ぎ、抑えの分業制。
肝心の抑え投手が阪急打線に打ち込まれてしまった。

「急にヤバイ展開やないかと、キャッチャーの野村さんからピッチング練習しろとベンチに指示が出た。私も駆り出され、ウォーミングアップをはじめようとした。けど2日前に完投勝利して100球以上、投げていた。形だけやと思って、2,3球軽く投げたら、いきなりピッチャー、江本とアナウンスされた。おいおい、どうなってねんと野村さんの顔をみたら、行けという。やけくそで投げたら何とか抑えられた。後で聞いたら、先発でもリリーフでもいけそうなのは、『エモ、お前だけや。完投したばかりやのにむちゃやと? それも計算していけるとマウンドに送ったんや』と野村さんは言ってました。確かに、あの当時、南海は10勝以上の先発は何人もいたが、リリーフできそうなのは、私だけ。よう見ていたんやなとあとで思いました」(同前)

 野村さんは愛妻家として知られ、おしどり夫婦としてさまざまなメディアで登場。しかし、妻の沙知代さんは17年12月に虚血性心不全のため85歳で死去した。

「奥様が亡くなって、ちょっと元気ないかと思っていた。けど、すぐに立ち直った感じで、球場で試合を見ては、おもしろおかしく解説してみんなを笑わせていましたよ。本の対談でも『ノムさんは100歳までは大丈夫や』と言っていました」(同前)

 合掌。(今西憲之)

※週刊朝日オンライン限定記事

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今西憲之

今西憲之

大阪府生まれのジャーナリスト。大阪を拠点に週刊誌や月刊誌の取材を手がける。「週刊朝日」記者歴は30年以上。政治、社会などを中心にジャンルを問わず広くニュースを発信する。

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