“盟友”が振り返る黒澤明「彼にとって編集は極楽の楽しみ」 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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“盟友”が振り返る黒澤明「彼にとって編集は極楽の楽しみ」

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藤井克郎週刊朝日
インタビューに答える野上照代さん (撮影/写真部・掛祥葉子)

インタビューに答える野上照代さん (撮影/写真部・掛祥葉子)

黒澤明監督 (c)朝日新聞社

黒澤明監督 (c)朝日新聞社

 巨星、黒澤明(1910~98)が逝って21年。生涯に残した30本の監督作品の芸術性、革新性は今も決して色あせない。小社刊「黒澤明DVDコレクション」から助監督や脚本として関わった「原点」ともいえる映画が初DVD化されるのを機に、製作スタッフとして長く黒澤監督を支えてきた野上照代さん(92)に、その魅力を語ってもらった。

【写真】黒澤明監督

*  *  *
「黒澤さんについて証言できる人は、みんな亡くなってしまいましたからね。使命とは思わないけれど、とんちんかんなことを言われると、そんな人じゃないと言うことはありますよ。私は黒澤の『く』の字で得をして、おかげさまで90歳までもっています。黒澤さんは、何だあいつは、まだ俺で食ってるのかっておっしゃるかもわかりませんけど……」

 そう苦笑いを浮かべる野上さんが黒澤監督と初めて出会ったのは1950年、まだ20代前半のころだった。その前年に大映京都撮影所でスクリプターの仕事を始めた野上さんは、見習いから一本立ちして2作目で「羅生門」の現場に入った。「ペーペーもいいところでした」と振り返るが、当時から黒澤監督は撮影前にカット割りを考えるわけではなく、とにかくありったけの材料を撮って、編集のときに演出するというタイプだったという。

「出会って最初に『俺は編集の材料を撮っているだけだから』と言われて、撮影のときは気が楽でした。ところが編集が大変。極論を言えば、私は編集のためについているみたいなもんですよ」

 その後、野上さんは大映を離れて東京の東宝に移り、「生きる」(52年)以降のすべての黒澤作品に携わることになる。旧ソ連映画の「デルス・ウザーラ」(75年)では、協力監督として極寒のシベリアで苦楽をともにし、遺作となった「まあだだよ」(93年)でのプロダクションマネジャーまで、黒澤組にはなくてはならない存在として監督を支え続けた。

 黒澤監督は、「七人の侍」(54年)以降はカメラ3~4台で同時に撮影。編集の際は、黒澤監督が一人でムヴィオラという機械をのぞき込みながら、こっちのフィルムのここの部分とあっちのフィルムのここをつなげて、といった感じで作業を進めていった。


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