島田陽子 (本人提供)
島田陽子 (本人提供)
内田裕也さん (c)朝日新聞社
内田裕也さん (c)朝日新聞社
撮影所で出会い、「舞浜ミーティング」でお別れ (c)朝日新聞社
撮影所で出会い、「舞浜ミーティング」でお別れ (c)朝日新聞社

 3月17日に肺炎で死去したロック歌手で俳優の内田裕也さん(享年79)と親交のあった国際派女優の島田陽子さんが本誌の取材に応じた。1987年から4年間交際し、その後も大切な友人だったという。独占インタビューで、荒っぽいイメージとは別の「素顔の内田裕也」を語り尽くした。

【写真】島田陽子さんと交際していた内田裕也さん

 ーー内田さんとの出会いはいつですか?

「東映の映画『花園の迷宮』(1988年公開)の撮影で初めて出会いました。私はずっと役者の世界にいましたが、内田裕也さんはロックミュージシャン。私の今まで知っていた世界にはいないタイプの方でした。

 ユーモラスな方で、普段から撮影所で音楽を聴きながら歩いていました。ある日、東映のメイク室に入った時に、ラジカセのボリュームを上げていたために、たくさんの大御所の役者さんたちがいて、ジロリとにらまれたそうです。

 結局、裕也さんはメイクもできずに、メイク室から出ていくことに。私には、そのエピソードが印象的で、面白い人だなぁと思いました」

 ーー撮影所での内田さんはどのようでしたか。

「ちょうどその頃、私はすごく悩んでいたんです。大きな映画でしたし、自分が主演なので全てをかけてもいました。

 映画にはオールヌードのシーンがありました。所属していたプロダクションも、映画のプロデューサーも、そこはなぜか触れないまま。現場で何とかしましょうみたいな流れでした。

 私もそのことを忘れていて、毎日毎日、演じていました。ところが、さあ、そのシーンが近づいてきて、ちょっと待って、これは私には無理だという気持ちになったのです。事務所の社長に相談したら、『監督と話し合ってくれ。陽子さんは自分の意見も言っていいから』と答えるばかり。

 その頃の私はオールヌードという経験は初めてでしたし、監督と話しても、プロデューサーと話しても、うまくいかなくて。東映の偉い人が説得に出てきたりもしました。

 私は、毎日毎日悩み、降板するにも、既に半分以上、撮影が終わっていましたから、それは無責任だし・・・どうしていいか、悩み苦しんでたんですね。

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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