麻原は、チベット仏教のダライ・ラマ14世から秘儀を伝授され、92年には「タントラ・ヴァジラヤーナ」を国教とするブータン政府から招待を受け、「最聖」の称号を贈られたと称した。しかも、タントラ・ヴァジラヤーナとは、殺人を含めた犯罪も救済のためにはやむを得ない、とする仏教の最上級の教義ステージだと説いた。

 さらに89年3月には、宗教法人設立の申請書類を東京都に提出したが、「出家制度などに苦情が多い」として受理を留保された。その時点で、都には元信者や信徒の親から、「入信した子どもと会わせてくれない」など、約20件の批判が寄せられていた。警察からの報告もあった。

 4月末には「陳情」と称して信徒約220人が突然都庁を訪れ、廊下を練り歩いた。5月には1週間にわたって、担当の課長や副知事などの職場と自宅に電話攻勢をかけた。

 6月に入ると教団は<法に定められた期限(3カ月)通りに認証しないのは違法>として、都知事を相手取って行政訴訟を起こした。そして8月末、念願の宗教法人の認証を受け、その後、訴訟は取り下げた。麻原は説法でこう言った。

「認証が下りました。オウム真理教は、宗教法人オウム真理教です」

 こうして教団を拡大させる一方、麻原は水面下で様々な違法行為を指示していた。88年に修行中に死亡した信徒の遺体を教団内で処分したのに始まり、89年には、信徒の田口修二さんと坂本堤弁護士一家の殺害をそれぞれ信徒に命じた。

 教団は田口さんを殺害した翌月に宗教法人の申請をし、認証された3カ月後に坂本さん一家を殺害した。

 宗教法人としてのオウム真理教は、その成り立ちからして、「殺人教団」そのものだった。

■衝撃の惨敗

 出家制度のもとに現世と隔絶を訴えてきた麻原は、89年に入って突然、政治への志を説き始めた。

「私たちの救済活動が、政治家たちに受け入れられるだろうか」
「瞑想しているだけで解決できるか? 政治が必要なんだ」

 念頭にあったのは、次期衆院選への出馬だった。

 唐突な選挙準備に信徒らは戸惑う。89年7月、緊急会議が静岡県富士宮市の富士山総本部で開かれ、約200人の信徒が集まった。

「選挙に出ると、オウムの宗教が変わってしまうのではないか」
「選挙や政治に首を突っ込むのは危険ではないか」

 反対意見が相次いだが、麻原は頑(かたく)なだった。全員が賛成するまで出馬の賛否を取り続けた。少年時代に満たされなかった自己顕示欲と、かつての政治家への思いが背中を押したとしか思えない執拗さだった。

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結果は全員が落選、麻原の得票はわずか…