「天国か地獄で、テレビやっててよかったなって思いたい」と語るコメディアンの萩本欽一さん(撮影/写真部・小原雄輝)
「天国か地獄で、テレビやっててよかったなって思いたい」と語るコメディアンの萩本欽一さん(撮影/写真部・小原雄輝)

 コメディアンの萩本欽一さんは、1980年代に“視聴率100%男”と呼ばれ、番組は軒並み大ヒットした。73歳で駒澤大学に入学し、今は学生生活を謳歌している。コメディアン欽ちゃんはどこからきてどこへいくのか。自身の半生を振り返ってもらった。

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――中学時代、借金取りに土下座している母親の姿を見た時に、「お金持ちになるぞ」と決意。高校卒業後、浅草の東洋劇場に入る。

 萩本欽一をビックにしてくれたのは、6割5分が坂上二郎さん。僕は3割5分。二郎さんに全部すがっていたわけじゃないけど、二郎さんと出会って、コント55号というコンビを組んだから、長くコメディアンを続けてこられた。

 二郎さんと初めて会ったのは21歳の時。7つ年上で、その頃、坂上さんは安藤ロールっていう名前だった。

 これがまあ、嫌なコメディアンでさ。とにかく突っ込みがしつこい。力をむき出しにして、対抗意識をぶつけてくるから、やりづらくて仕方なかった。最初は、しんどい相手だなあって思ったね。

 でも、ギリギリのところでぶつかり合うことが、ステージの上では最高の効果をもたらしてくれた。あんな素晴らしいパートナーはいない。かなわない存在だけど、苦労してどうにかぶつかっていって、そういう繰り返しが突っ込みの幅を広げてくれた。だから、離れて仕事するようになってから、司会や番組の主役をやれたんだよね。

 コンビじゃなくなってからも、こういう時に二郎さんだったらどうするかな、どう返すかな、なんて考えた。そこでもまた鍛えられたよね。目の前にいないのにね。二朗さんは、たいしたもんだよ。

 二郎さんから教わったのは、相手が期待どおりにできないからといって文句を言わない、ケンカをしないってこと。おかげでお笑いに関しては素人の人たちと、面白い番組を作れたんだと思ってる。

――妻の澄子さんと出会ったのも、浅草での修業時代。踊り子として売れっ子だった3歳年上の「お姐さん」は、駆け出しの萩本を励まし、何かと親切にしてくれた。

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その後「お姐さん」は…