家財道具とかずいぶん買ってもらって、そのうちいっしょに住み始めたんだよね。でも、僕がコント55号で有名になったら、いなくなっちゃった。「私の役目は終わった」と思ったのかな。何年も探して、どうにか居場所を突き止めて、またちょくちょく会うようになったら、子どもが生まれたの。テレビで「欽ドン」がスタートした頃かな。

 さすがに隠してはおけないと思って、テレビで「僕、結婚してます。子どももいます」って発表したの。僕は20代のころから結婚するならこの人と思って、それまで何度も本人には結婚しようって言ったんだけど、「私、有名人とか好きじゃないから」って断わられ続けてたんだよね。発表しちゃったからしょうがなく結婚してくれたけど。

 もともとは、コメディアンとして見込みがありそうだと思って応援してくれたみたい。だから、家庭のことより、とにかく仕事に没頭させてくれた。

 何度も言うとウソっぽく聞こえそうだけど、自分が歩みたい人生を歩ませてくれる奥さんと出会えて、男としてすごく満足してる。

――1980年代前半には『欽ドン!良い子悪い子普通の子』など冠番組が軒並み人気に。「視聴率100%男」と呼ばれたが、1985年に、休養を宣言した。

 いろんなことに疲れちゃって、休養って言うとカッコいいけど、逃げたんだよ。僕のモットーは、勝つか逃げるか。テレビではそれなりのことをやってきて、「もういいかな」って割り切れたんだと思う。

 そのあと、野球チームを持ったり、テレビ以外のことをいろいろやってみた。

 ある時から、若いのを育てることに興味が出てきた。いいヤツがいたら「欽ちゃん」の名前をあげたい。そいつが自分以上の人気者になったら、自分の人生をもう一回やっているような気持ちになれそうじゃない。

――73歳で大学に入学。現在も、キャンパスライフを謳歌中だが、「死」については、考えているという。「お墓」や「葬式」について、まるでTV番組の新プランを披露するように、生き生きと語る。

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最初に弔辞を読ませるのは勝俣州和?