落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は、「神様」。

*  *  *

 私が前座のとき。某寄席で働いていると、扉をガンガン叩く音がしました。おそるおそる「どちらさまですか?」と開けると、50歳くらいの眼鏡をかけた、もたいまさこ風のご婦人が、

「さっき落語やってたTさん、まだいらっしゃるっ!?」

 と飛び込んできました。

 怒ってました。冬なのに水をかぶったように汗だくでした。人間ってメチャクチャに怒ると大量に発汗するんですかね? 怒りあまって血の気が引くってのはウソ。

「……まだいますけど、失礼ですがどちらさまですか?」

 と聞けば、

「名前なんかどーでもいーんですっ!!」

私「師匠、『名前なんかどーでもいーんですっ!!』と言いながらメチャクチャ怒ってる、ビショビショのおばさんが『出てこい!』って言ってますけど……」
T師匠「……嫌な予感しかしないな。『いない』って言っ……え? 『いる』って言った? バカっ!! そういうときは『もう帰りました』って言えよ!!」
私「師匠のファンかもしれないと思って(半笑)」
T「……ファンが怒るか?」

 T師匠はその後、楽屋口でビショビショのご婦人に怒鳴られ続けました。

 師匠のネタは『宗論』(浄土真宗を信仰する親父とキリスト教徒の息子の言い争いの噺)。内容に腹を立てた敬虔なクリスチャンのお客様だったようです。

T「『あなたのファンだったのに、ガッカリです!』だって……」
私「やっぱりファンでしたか!」
T「『明烏とか紺屋高尾が聴きたかった』って言われたよ」
私「女郎買いの噺はいいんですね、あの人」

 しかし、噺家を16年やってますが、『宗論』でここまで怒る人と怒られてる人を見たのは初めて。「もう二度とやらないように!!」とまで言われて、ちょっと気の毒な師匠でした。

「あそこまで言われたら、悔しいけどちょっと控えるわ」

 とうなだれてました。仲間内にもその噂が広がり「Tは災難だったな」が大方の楽屋の意見。

 
 それから1年半。「ひさびさに解禁しよーかな」とT師匠。本当に1年半ぶりに『宗論』をやったら、楽屋の戸を叩く音が。あのご婦人でした。まじで。やはりビショビショです。

ご婦人「あなた、まだやってるんですかーっ!! 久しぶりに寄席に来たら、またこんな思いさせられて、私はどーしたらいーんですかっ!!」
T「えーっ!! 今日、久しぶりにやったら、またあなたがおみえに……」
ご婦人「言い訳はいいんです!!もっと明烏とか……」
T「昨日やりましたよ! 昨日来てくださいよっ!」
ご婦人「知りませんよ! 私だってあなたのファンだから、毎日来たいのに(泣)!」
T「ありがとうございます! 私だってあなたに他の噺も聴いてほしいんです(泣)!」

 二人は手を取り合ってました。『宗論』でここまで泣く人(しかも二人も)を見たのは初めて。

 これもすぐに楽屋内に広まり、楽屋の意見は、「神様はいるんだな」と「神も仏もないものか」と、もう一つ……「めんどくさいからお前たち、付き合っちゃえよ……」の三つに分かれましたとさ。

週刊朝日 2017年9月8日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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