家康の生涯は、乱世の中をのたうち回るようなものだった。実の母が父・松平広忠から離縁されたのも、松平家が駿河の今川家に保護されていたのに、母の実家が今川家と敵対する織田家と結んだからだった。幼い家康は今川家へ人質に出され、そして父の広忠は家臣に暗殺されてしまう。その後、16歳で初陣を飾ってからというもの、約60年間を、戦場を疾駆して過ごした。この調子で乱世しか知らない家康は、いったいどのような根拠に基づいて「元和偃武」を宣言したのだろう?

 いや、家康一人だけではなかった。1615年といえば応仁の乱から150年近くが経過している。日本人で長期間の平和を知る者は、誰一人いなかった。仮に自分の住む城下なり村なりが平穏だったとしても、日本のどこかでは戦があったし、それが巡り巡って自分の住む土地にも波及してくるという感覚は、誰もが抱いていたであろう。そして戦を予感する者は警戒心を強め、武装を整え、そのことがまた戦を起こしやすくする。日本は戦乱が戦乱を生む悪循環の中にあったのだ。「元和偃武」はこの悪循環を断ち切るという、未来を見据えた宣言だった。

 こう書けば、それがどれほど革命的な考え方だったか、少しはおわかりいただけるのではないかと思う。

 戦乱しか知らない日本人を束ねて、平和な世を築く。

 このことを家康が確信できた理由はいくつかあった。その一つは、彼の生涯を通じて三河武士団が発揮してきた絶対的な忠誠心である。朴訥(ぼくとつ)で律義、そして真っ正直な三河武士団を核にして、それぞれ民政に戦争に実績を上げてきた今川、武田、後北条の旧家臣たちが加わった数万人が江戸初期の徳川家だったわけだが、家康としてはこの巨大組織に対する深い信頼の念があった。

 家臣団こそが平和の骨格であり、神経だった。

週刊朝日 2016年2月19日号