豊臣氏を滅ぼした直後の1615年に…(※イメージ)
豊臣氏を滅ぼした直後の1615年に…(※イメージ)

 昨年、没後400年を迎えた徳川家康。1615年に元号を「元和(げんな)」とした家康だが、戦乱が続いた当時の日本の未来を見据えた宣言だったと、徳川宗家19代目・徳川家広氏は解説する。

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 私の先祖の徳川家康は、1543年、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)に生まれた。没年はイギリスの文豪シェイクスピアと同じ1616年である。「いろいろあった人生」を結ぶのにふさわしい没年だといえようか。

 もっとも、徳川家康没後400年を記念して日本各地で催し物があったのは2015年だった。要は数えで行われる四百回忌であり、四百年大祭だったのだが、西洋式の記年法に慣れた私には何とも居心地が悪かった。

 だが、それでも15年はお祝いにふさわしかった。大坂の陣を終えて、豊臣氏を滅ぼした直後の1615年に、徳川家康は禁中並公家諸法度、武家諸法度、仏教の各宗派と格式の高い神社のそれぞれとの間で定めた社寺法度を公布、さらに元号を慶長から「元和」と改めて「元和偃武(えんぶ)」を宣言したからだ。

 元和は「和を元(はじめ)る」と読める。いっぽうの偃武は、「武を偃(や)める」だ。つまり昨年は、徳川家康が徳川幕府の根本方針として、平和主義を世に対して明確にしたことの、400周年だったのである。

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