長宗我部家17代当主・長宗我部友親は元親の息子・盛親について、その不運を嘆く(※イメージ)
長宗我部家17代当主・長宗我部友親は元親の息子・盛親について、その不運を嘆く(※イメージ)

 長宗我部元親が四国統一し、隆盛した長宗我部家。17代当主・長宗我部友親は元親の息子・盛親について、その不運を嘆く。

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「大坂の陣のとき、なぜ自刃して果てなかったのか」など、長宗我部家に、暗転と言えるまでの大きな不幸をもたらした第22代当主の盛親については、これまでも疑問を感じることが多かった。だが、盛親には、自分なりにその思うところがあったのであろう。

 人生というのは、何が起こるかわからないものである。

 盛親は、元親の四男として天正3(1575)年に生まれた。その年は元親が渡川(現・四万十川)の戦いで一條兼定を破って土佐統一を果たしている。

 元親には嫡男の信親がいて、末っ子である盛親は岡豊(おこう)の城で、当主になることなど全く考えることもなく、養子に出されるのを待つといった格好で、領主の子として何不自由なく育ったであろう。

 だが、幸か不幸か、その盛親に元親の後嗣の役割が回ってきた。

 天正14(1586)年の豊後・戸次(へつぎ)川(現・大野川)の戦いで、信親が討ち死にしてしまう。

 豊臣秀吉は即座に、元親の次男の親孝(親和)を後嗣と認める朱印状を出すが、元親はそれを無視、盛親に信親の娘を室として迎えさせ、長宗我部家の後嗣を盛親とする。

 この決定には重臣の中からも強い異論が出される。順序としては次男の親孝が先であり、元親の言う結婚は近親である、ということだった。だが、元親はその重臣らに耳を貸さず切腹を命じ、強引に持論を通す。

 それまで柔軟だった元親がこのころから大きく変身し、かたくなになったといわれる。人間的に幅がなくなったようである。家臣団にも亀裂が生じ始めた。

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