「僕はまだ死ねない」野坂昭如が最後まで残した非戦の想い (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「僕はまだ死ねない」野坂昭如が最後まで残した非戦の想い

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週刊朝日#お悔やみ
「実際は繊細な人だった」(※イメージ)

「実際は繊細な人だった」(※イメージ)

「火垂(ほた)るの墓」などの小説を書き、歌手デビュー、映画出演、参院議員当選も果たした野坂昭如さんが今月9日、85歳でこの世を去った。野坂さんを知る人たちは「実際は繊細な人だった」と口をそろえる。

 テレビ朝日「朝まで生テレビ!」の司会者で、野坂さんと何度も共演したジャーナリストの田原総一朗さんは言う。

「番組の“爆弾”だった。出演者を怒鳴りつけるのも当たり前で、毎回どんな発言が飛び出すかわからず、いつもヒヤヒヤしていた。あらゆる価値をみんな疑っている、根本的にアナーキーな性格。戦争で義理の両親や妹を失った経験が影響しているのでしょう。国家なんて信用しないという思いを強く持っていた」

 野坂さんは番組で「日米安保条約は必要なのか」「民主主義はなぜ必要なのか」と何度も問いかけた。田原さんが続ける。

「本当はやさしくて繊細な人。激しいことを言っている自分への抵抗もあったと思う。自分とけんかして、自分を傷つけているような感じ。それでも言わないといけない使命感のようなものがあったんでしょう」

 本誌の野坂連載の担当編集者だった戸田鴻さん(82)も「当時広まっていた評判と中身がまるっきり違う人だった」と話す。娘のお宮参りに行くなど家庭的な一面もあったという。山藤さんも「会うと、シャイで上品な人」と評する。対談した際、「まるで話が弾まなかったこともある」という。

 脳梗塞を患った後は、リハビリをしながら執筆活動を続けていた。暘子さんは、ピアノに合わせて歌う「シャンソン療法」などを考案し、独自の介護方法で夫を支えた。おかげで、07年の次女の亜未さんの結婚式では腕を組んでバージンロードを歩くこともできた。

「彼のリハビリは私のリハビリだと思っています」

 暘子さんは、そう話していた。

「一番大事にしていたことは、自分がこの家の太陽であること。(夫が)倒れてからは、よりいっそう自分が太陽のようでありたいと意識するようになった」

 09年の本誌の母子対談で、亜未さんは「力関係でいうと、断然、母親が一番で、多分、父は猫の次ね」と言って笑っていた。

 野坂さんは、暘子さんの口述筆記で最後の最後まで原稿に取り組んでいた。編集者の矢崎泰久さんは、「週刊金曜日」用の野坂さんの連載の原稿を亡くなる前日に受け取っていた。

「彼の生涯の原稿に携わってきたが、絶筆まで受け取ることになるとは……。彼が一番大事にしていたことは、子どもたちに二度と戦争をさせたくないという平和を願う心だった」

 絶筆となった原稿は、本葬で配布するという。

 映画監督の崔洋一さんもこう話す。


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