赤松が政治の表舞台で活動した時期は短い。信州上田藩の下級武士に生まれて江戸に留学中、勝海舟の私塾に入門。このときに勝が長崎海軍伝習所赴任になると勝の供侍として長崎に同行。4年間長崎に滞在して蘭学、英学などを学んだ。勝が咸臨丸で渡米する際に赤松も乗船を願ったが選から漏れた。その失意の時期に上田に帰って赤松家の養子になり、自分より若い旗本の赤松大三郎(則良、のちに海軍中将)が航海士として乗船できたので赤松小三郎と改名した。
再度江戸に出て、砲術学の下曽根塾に入門。この塾で1862年版「英国歩兵練法」の一、三、五編を翻訳。二、四編は加賀藩の浅津富之助訳だ。慶応2年に大手出版社から出版されて赤松の知名度が上がり、これを契機に京に出て衣棚に兵学の私塾を開設。欧州でクリミア戦争、米で南北戦争が起きて銃砲の性能が一挙に進化して戦法も変わった。語学能力に優れていた赤松はいち早くそれらの情報を身につけていたのである。
ここで開塾と同時に薩摩、肥後、大垣藩が入塾させ、越前藩は4人の藩士を送った。島津久光はその授業を知ってから京の薩摩藩邸に教室を提供して出兵してきた藩士の教練をさせた。生徒には中村半次郎、篠原国幹、村田新八、東郷平八郎らで、門弟800人。
午前中は教練にあたり、午後は西欧文明や社会状況を講義。また、下曽根版の情報が古くなっていたので1864年版の「英国歩兵練法」を薩州軍局から出版した。
赤松は親交のあった会津藩の山本覚馬と一緒に「幕薩一和」を目指して薩摩の西郷隆盛、幕府側へは慶喜のブレーンだった若年寄・永井尚志らに働きかけた。幕府から赤松を開成所教官に抜擢するという申し出があったが、上田藩は「藩の兵制改革に必要」と断って帰藩を急がせた。帰る支度をしていた9月3日、東洞院通りを歩いていた時、何者かに暗殺されてしまった。
その死を悼んで島津久光は300両を贈り弔慰を示した。その3カ月後には京の金戒光明寺に墓を建て、薩摩受業門生の名前で墓碑に彼の業績を記した。だが、この碑文には「不幸にして緑林の害に遭いて死す年三十七」と刻まれていた。「緑林の害」は強盗殺人によって殺されたことを意味する。実は人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎こと桐野利秋の『京在日記』が1967年に発見されてそのなかに桐野ともう一人で、赤松を殺したと書いてあった。しかも、これは誰かに報告するために詳細でリアルだ。
「中村に命令できたのは西郷隆盛だから、西郷が政治・軍事の秘密保持のために殺させたのだろう。西郷は明治維新の実力者だったから赤松を殺した犯人は誰も口を拭って言わなかった」とも青山教授は言う。
好戦的な西郷には平和主義の赤松が邪魔だったのかもしれない。
赤松の死後1カ月後に慶喜は大政奉還、翌年1月から戊辰戦争が始まった。
「たら、れば」ではあるが、民間からの初の憲法構想である赤松の建白書が採用されていれば富国強兵に走ることもなく、日清、日露戦争も起こらなかったかもしれない。
(ノンフィクション作家 宮原安春)
※週刊朝日 2015年11月6日号より抜粋