坂本龍馬の陰に隠れた英雄が…
坂本龍馬の陰に隠れた英雄が…

 真田一族と同じ長野県上田市の英雄、赤松小三郎は幕末史で長い間、坂本龍馬の陰に隠れてきた。だが、地元研究会が調査するなどし、最近は脚光を集めている。彼の「建白七策」は、幕藩から一挙に民主国家の新体制、軍隊を構想。先覚的な思想だったと評価上昇中なのだ。ノンフィクションの宮原泰春がつづる。

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 赤松の「建白七策」は「天幕御合体、諸藩一和」で始まる。当時緊迫していた海外の軍艦との戦争を避けるために公武合体論を主張し、国内で戦争をしている場合でないという主張だった。徳川幕府の鎖国による平和が約200年続いていたが、1853年のペリー来航によって和親条約を締結、さらに米英仏露と通商条約を結んだ。

 だが、孝明天皇は通商条約調印を認めないので京が政局の中心になって、攘夷派と開国派がしのぎを削る状態になった。孝明天皇と幕府は和宮を将軍家茂に降嫁させて公武合体で乗り切ろうとしていた。

 慶応2年、将軍家茂が死去、続いて孝明天皇崩御。将軍には慶喜がなり、当時満14歳3カ月の明治天皇が践祚(せんそ)。この時代に赤松が「建白七策」を提出。天皇を頂点に置いた上で「一人は大閣老にて国政を司り」と首相を置いて財務相、外相、国防相、司法相、税務相の6人の行政府を設置。立法府は上下二局の議政局を立て、上局は公家、大名、旗本から選挙で30人を選び、下局は全国から選挙で選ばれた130人で構成。首相の独裁を防ぐために「議政局で再議して」議政局の決議が行政府に優先するとした。

 第2は学校教育の確立。第3は人民平等。第4は通貨の国内統一。第5は海陸軍の設置で、陸軍を2万8千人、海軍は3千人なので自衛のための軍隊と言える。さらに諸物製造局(経産省)を造ること。欧米人に比較して日本人の体格が劣るため肉食を建言した。

「春嶽と土佐の山内容堂は仲が良かったのでしょっちゅう会って話し合っており、春嶽がこういう建白書が届いたと教えた可能性があります」(青山教授)

 これに対して赤松小三郎研究会の丸山瑛一会長から「坂本龍馬がその1カ月後に書いた『船中八策』では赤松が議政局と書いた用語が使われている。赤松の建白書を模倣したものではないか」という質問が出た。それを受けて知野文哉氏がこう解説した。彼は龍馬の伝説部分をそぎ落として史料に基づいた『「坂本龍馬」の誕生』を書いた著者だ。

「坂本龍馬が船のなかで書いたと言われる『船中八策』は明治以降の創作です。維新後に薩長閥から政治的に冷遇された土佐出身の政治家が功績を強調するために龍馬の活動を誇張して膨らませたのでしょう」

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