瑞龍寺が建立されたのは、利長が死んでから30年も後、利常の長男の光高が急死し(徳川家に毒殺されたという説がある)、その喪が明けてからだった。四津谷さんは、そこに徳川家への対抗意識を見る。「瑞龍寺の建物は木目と木組みの美しさを生かした質実なもの。派手な色彩と彫刻の日光東照宮とは対極の美学を打ち出したのだと思います。信長父子の廟を作ったのも暗に、信長時代には徳川家と同格だったという存在感を示そうとしたのではないでしょうか。また豪雪を理由に屋根を鉛でふいていますが、これはいざというとき、溶かして弾丸にすることを想定したようです」。実際に瑞龍寺は金沢城を中心とした軍事拠点としての役割も担っていたらしい。

 しかし、徳川の天下のもと、力のある大名でも将軍家に目を付けられたら、つぶされる可能性があった。それを巧みに避け、けん制はしても、正面切ってぶつからず、一目置かれる存在として手出しをさせない。前田家はこうしたバランス感覚に優れ、それは明治維新まで続く。

 その原点は前田利家にある。若い頃は槍の名手で、武闘派だったが、年を経るにつれ、戦(いくさ)だけでなく、文化にも経済にも強い武将に成長した(利家は算盤[そろばん]を使えたという珍しい武将である)。それには青年時代に、信長の近習をけんかで斬殺してしまい、一時期、信長に縁を切られたことが生きていると四津谷さんは語る。「このときに悩み、たくさん本を読んだらしい。それが後年の懐の深さや柔軟性を養ったのでしょう」。信長にとっても利家は、数少ない、心を許せる存在だったのではないだろうか。孤高、非情の印象が強い信長だが、利家とともに祀られているのを見ると、ほっとするようなものを感じる。

週刊朝日 2015年9月4日号