利家は、数少ない心を許せる存在だった…?(※イメージ)
利家は、数少ない心を許せる存在だった…?(※イメージ)

 織田信長の側近として仕え、その娘を正室に迎えるなど、織田家と縁深い前田家。織田家18代当主・織田信孝(のぶたか)氏が前田家との関係を明かした。

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 瑞龍寺(ずいりゅうじ・富山県高岡市)に入ると、手入れされた芝生が広がり、そこに重厚な寺院建築がそびえて美しい。

 ここは加賀藩藩主の前田家の菩提寺の一つである。高岡を城下町として整え、栄えさせた2代目藩主、前田利長(としなが)を弔うため、3代目藩主の利常(としつね)が建立した。利長は藩祖・前田利家の長男で、若いときから父とともに織田信長に仕えた。しかも信長の四女、永姫(えいひめ)を正室に迎えた。つまり利長にとって信長は、主君であり、父の親友であり、舅である。本能寺の変の後、利長は信長・信忠父子を金沢の寺で供養したという。また利常の正室である珠姫(たまひめ)は、秀忠と江(ごう・信長の妹のお市の娘)の娘だから、やはり織田家の血が入っている。そうした縁から瑞龍寺には、織田信長、信忠、永姫の母である信長の側室(正覚院)の墓が作られ、そこに利長と、藩祖である前田利家の墓が加えられたらしい。

 これらの墓は石廟と言われる珍しい様式のもの。石造りの社(前方に観音開きの扉が付いている)の内部に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が納められている。「素材は越前特産の笏谷石(しゃくだにいし)です。利長公の石廟の外壁には25体の菩薩像のレリーフがあり、大陸や朝鮮の影響も見られます」と住職の四津谷道宏さんは語る。永姫の墓がないのが不思議な感じがするが、大名の墓は複数あることが珍しくないので、こうしたことも起こるのだろう。永姫の墓はもう一つの利長の墓とともに、金沢の前田家墓所にある。また瑞龍寺の近くにも利長の大きな墓がある。

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