軍国主義の抑圧から解放された日本の文化は、少しずつ息を吹きかえします。日本中にダンスホールができた。昼は喫茶店で、夜にはキャバレー。生バンドの演奏で若者もお年寄りも踊りました。タンゴにハバネラ、ワルツが入ってルンバが来て、サンバもマンボもありました。当時の音楽には、多種多様なメロディーとリズムがあった。

 銀巴里は、文化人の集いの場所でもありました。十七代目中村勘三郎さんが「歌のうまい美少年がいる」って、江戸川乱歩さんを連れていらした。彼の小説は子どものころから読んでいたから、すぐにお友達になりました。すると、新進作家として売り出していた三島由紀夫さんが来て、次に川端康成さんを。東大の学生だった大江健三郎さんは詰め襟を着ていらしたし、当時高校生だった劇作家の寺山修司さんにもお会いした。芸術家の岡本太郎さんは、飛び入りで、流暢(りゅうちょう)な仏語で歌をお歌いになったりと、きらびやかな日々でした。

「ヨイトマケの唄」へと導かれたのは、そうしたときです。手配師の手違いで炭鉱の町で興行をすることになった。会場の公民館に行くと、爪や皮膚のシワまで炭塵だらけのお客さんがゴザに座っていました。貧しい生活のなかから、お金を払って歌を聴いてくれている。でも、日本では彼らのための歌は、「炭坑節」といったものしかない。それならば、自分が労働者のための歌を作ろうと、「ヨイトマケの唄」を始めとする一連の歌が完成したのです。従軍慰安婦の女性たちから聞いた悲惨な話は、「祖国と女達」として歌いました。顧みられることのなかった人たちへ、歌を捧げたいと思った。誰もやらないことに挑戦する。芸能生活64年目になるいまも、この姿勢は変わりません。そのためか、「美輪さんは、芸能界にいながら芸能界とは違った場所に立っている」と言われることも多いですね。

週刊朝日 2015年7月24日号より抜粋