春の新宿御苑
春の新宿御苑

 内藤家18代目当主の内藤頼誼(ないとう・よりよし)氏は、「新宿御苑(ぎょえん)」は内藤家の土地と屋敷があった場所だったという。

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 明治維新になって、大名たちは江戸屋敷を新政府に返上しました。内藤家も敷地の大部分と屋敷を放棄しています。

 広大な敷地は、政府の農事試験場、皇室のための野菜や果物、花をつくる御料農場をへて、1906年に、前例のない規模の大庭園「新宿御苑」となりました。

 内藤家は、新宿御苑のすぐ東隣に残した土地に、新たに屋敷を建てました。書院造りで、雨戸を引くだけでも大変なくらい広大な日本家屋です。昭和に入ると和洋折衷の別館がつくられて、私たち子どもらは、そこで生活していました。

 うちの敷地と新宿御苑との境には川が流れていました。玉川上水の支流で渋谷川といって、唱歌「春の小川」のモデルになっています。今は暗渠(あんきょ)になって見る影もありませんが、そのころはほんとうに牧歌的。絶えずせせらぎの音がして、蛍狩りもできました。

 子どものころ、うちには「火事でも絶対に焼けない」と言われていた土蔵が2棟ありました。戦時中はひとつの土蔵に大事なものをぜんぶしまい込み、1棟は人に貸していました。ところが、B29の落とした焼夷弾(しょういだん)が土蔵の瓦屋根を突き破ってしまった。建てた人も焼夷弾までは考えていなかったんだろうね。土蔵の中は完全に蒸し焼きです。中に入れていた2代・清成の具足をはじめとする内藤家伝来の品々はすべて焼けてしまった。だからうちには家宝がなにも残っていません。すぐ隣の貸していた土蔵は見事に残ったんですけどね(笑)。

 疎開先は、江戸時代に内藤家が治め、当時はまだ屋敷が残っていた高遠町(たかとおまち・長野県伊那市)でした。ありがたいことに、地域の青年団が2週間に1回くらい、背負いカゴにカボチャやリンゴなど季節の野菜や果物を入れて、交代で届けてくれました。向こうにしてみればいい迷惑だったろうけど、育ち盛りにひもじい思いをしないですみました。おかげで私は178センチまで背が伸びたと思っています。

 この屋敷の隣には、高遠藩の藩校・進徳館があり、一部が今も残っています。進徳館というのはユニークな教育をしていたところです。年少と年長、よくできる子とできない子を組み合わせて勉強をさせました。わからないところをわかる子が教える。これだと落ちこぼれが出ないんですよ。

 進徳館の卒業生には、伊沢修二という人がいます。学校教育に音楽を導入して、東京音楽学校(現・東京芸大)の初代校長になりました。その縁で、毎年秋に芸大の4年生が中心となり、“卒業公演”に伊那市を訪れています。

 明治から昭和の文豪、田山花袋は高遠を訪れて、歌を残しています。「たかとほは山裾のまち古きまち ゆきあふ子らのうつくしきまち」。この歌が高遠町の誇り。確かに、今でも高遠の子どもたちは知らない人たちにもあいさつします。

 高遠は桜の名所でもあります。高遠城の跡に咲くタカトオコヒガンザクラは濃いピンク色です。遠くから見ると、山の中腹にピンクの雲がかかっているよう。高遠城址公園での花見は、地形に高低差があるから上も下も正面もぜんぶ桜。それは見事なものですよ。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日 2015年3月6日号