忌野清志郎(c)朝日新聞社 @@写禁
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 中学時代から音楽活動を始め、スターとしての地位を確立した忌野清志郎。同級生の俳優・三浦友和も彼に影響を受けた一人だという。

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 都立日野高校で「同級だった」と言っても、清志ちゃんと同じクラスになったことは一度もなかったんです。ただ、中央線の立川駅から多摩動物公園方面へ行くバスに乗るという通学ルートが一緒でした。一見、おかっぱ頭の華奢な少年だけど、中学時代に結成した「RCサクセション」は、当時もうコンテストに出たりして一目置かれる存在でした。僕も別のバンドをやっていたので「こいつがその男か」なんて思っていたんです。

 何年生の文化祭だったか、別の高校に進学していたRCのメンバーが日野高校に集まって、教室でゲリラライブをやったんです。生で歌を聞いたのは、そのときが初めてでした。「全部オリジナルなのか。アコギとベースだけ、マイクなしでこんなに迫力があるのか、凄いな」って驚きました。

 そのころ、彼が言った「才能のないヤツは大学へ行け!」という言葉に衝撃を受けて人生が変わっちゃったんですね。進学率95%の高校なのに、大学を受験しなかったんです。僕も音楽で食べていけるんじゃないかと勘違いしちゃった。「清志ちゃんは天才の域なんだ、彼は選ばれた人間で自分は違うんだ」と気がつくまでにけっこう時間がかかりました。

 RCは高3のころから「レコードを出すんだってよ」と騒がれて、出だしは良かったけれど、ロックバンド全盛に変わる過渡期で「食えない」という時代もありました。「金がないから歯医者に行けない」って、前歯の抜けた顔でニヤッと笑っているのを見て、「これからどうするんだろうな」って、ちょっと心配したりもしていました。

 そうこうしている間に僕がドラマで俳優デビューすることになった。若者=長髪+汚い服という時代に「こんなヤツはいないだろう」というような七三分けのマジメなガードマン役でした。清志ちゃんは「七三分け? お前なんかもう友達じゃないよ」とか言いながらドラマは見てくれる。それで、たった一言しかない僕の台詞をうれしそうに何回も何回も繰り返して言うんですよ。僕も食えない時代の清志ちゃんを心配していたけど、彼も僕のことを心配していて、ホッとしたのかもしれません。彼らが渋谷の「屋根裏」っていうライブハウスで人気が出て、「とうとう武道館だ」ってころには「やっと時代が清志ちゃんに追いついたな」と思っていました。

 日野高校には「日野高OB展」っていう毎年開かれている美術展があるんです。もともとは「日野高美術部OB展」だったんですが、清志ちゃんを引っ張り出すために「美術部」を取っちゃった。彼は毎年絵を出していて、僕も陶芸の作品を出して、一緒に見に行ったりしていました。

 清志ちゃんは亡くなる年にも作品を出していて、髪の毛が全然残っていない状態で帽子かぶって見に行っていた。前歯が抜けたときもそうだったけど、彼はそういうところでカッコつけたりしない「さらけ出し」タイプ。最後まで、まったく隠し事のない男でした。

週刊朝日 2015年2月20日号