道徳が「特別の教科」に格上げされる可能性が出てきたが、ジャーナリストの田原総一朗氏はすんなり認めることは出来ないと理由をこう語る。

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 道徳の授業が「教科外の活動」から、「特別の教科」に格上げされる見通しとなった。

 戦前、戦中は修身という授業があり、私も小学校で授業を受けた。教科書を開くときには両手で持って、押し頂いたものだ。そして教師は、まず天皇陛下に忠義を尽くすこと、そして国家のために一身をささげて戦うこと、親に孝行することなどを教えた。

 ところが戦争に負けると、修身の教科書は焼かれることになり、私が小中学校の間は、道徳らしいものは学校では教えられなかった。道徳はタブーだったと言える。

 道徳の時間が復活したのは1958年のことで、これには反対の意見も強かった。ただし、道徳はあくまで「教科外の活動」であり、使われたのも副読本であって教科書ではなかった。

 それが、安倍晋三首相の肝いりでつくられた政府の「教育再生実行会議」が昨年2月に教科化を提言すると、今年10月21日に「中央教育審議会」の出した答申で、2018年度にも小中学校で「特別の教科」として授業が行われることになったのだ。

 道徳という言葉には、私は強い抵抗感がある。教師に対する頭の下げ方が足りないとか、返事の声が小さいということで、竹のむちで頭を打たれたり、教室の後ろに立たされたりしたものである。とにかく修身というのは押しつけで、反論はおろか、疑問をはさむのも許されなかった。教師の言うことは絶対で、いや応もなかった。そういう記憶があるので、道徳という言葉がすっきりと受け入れられないのである。

 社会的なモラルやルール、マナーを守ることは大事であり、校内暴力やいじめなどには厳しく対応すべきである。ただし、一方的な押しつけによって抑え込むのではなく、どうあるべきかを話し合い、多様な意見をぶつけ合うことで、あるべきかたちを見つけ出す。これが戦前、戦中とは違った民主主義時代のやり方だと私は考えている。

 公共と個人の関係について言えば、特定の枠には縛られず、誰もがあるべき姿を懸命に考える。私は道徳とは、あるべきかたちそのものよりも、あるべきかたちを論議して考える、そのプロセスこそが重要なのではないかと思う。

 先日、脳科学者と話をしたとき、心臓や、胃、腸などの消化器は原始的な動物の時代から長い長い歴史を経て、ほぼ完成されたかたちになっていると聞いた。そして脳でも、怒りや悲しみ、喜び、楽しさなど感情をつかさどる部分は動物にもあるので、これまた長い歴史を経ている。だが、理性をつかさどる部分は、人間が誕生し、それもかなり進化してからできあがってきたもので、未発達なのだというのである。

 公共と個人の関係をどう考えるか、などというのは、まさに理性の範囲であり、未発達なので失敗や誤りも生じてしまう。だから道徳教育などが必要となるのだと脳科学者が言った。その意味では、道徳の必要性は理解できるが、理性の問題だからこそ、一方的な押しつけではなく、あるべきかたちを思考するプロセスこそが大事なのである。

 それにしても「教科外の活動」の道徳は教科ではないために成績評価はなかったが、「特別の教科」になると成績が評価されることになる。少なくとも戦前、戦中のような成績序列はつくるべきではない。

週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋

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田原総一朗

田原総一朗

田原総一朗(たはら・そういちろう)/1934年、滋賀県生まれ。60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年3月まで)。 現在、「大隈塾」塾頭を務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数

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