今も毎日大学に行き、研究や指導に励む (c)朝日新聞社 @@写禁
今も毎日大学に行き、研究や指導に励む (c)朝日新聞社 @@写禁

 日本人では南部陽一郎氏(物理学賞)の87歳に次ぐ、高齢でのノーベル賞受賞となった赤崎勇さん(85)。名古屋市の自宅には桜島の絵画を飾っている。

「研究者としてここまでこれたのは、故郷のおかげ」と感謝の念を忘れない。

 1929(昭和4)年、鹿児島県知覧町(現・南九州市)で生まれ、鹿児島市内で育った。小学生のころは2歳年上の兄らとともに、近くの野山での虫捕りや海岸での磯遊びに夢中だった。

 父は薩摩藩士の末裔(まつえい)。寡黙で子育てに熱心というわけではなかったが、ある日、「鉱石の標本」を贈られた。毎日眺めるうちに、鉱石の結晶の違いに魅せられた。

「きらきらと光ったり、雲母のようにペラペラとはがれたり、石によってさまざま性質が違う。とても興味がわいて、自分でも石を集めるようになった。後年、結晶にのめりこむのは、関係しているかもしれない」と、京都賞(稲盛財団主催)受賞時の講演などで述べた。

 進学した旧制鹿児島二中(甲南高校)での成績は学年1番で、級長も務めた。同級生で近所に住んでいた増満基仁さんは振り返る。

「理数系はもちろん、文系の科目もできた秀才。試験勉強を一緒にしたけど集中力がすごかった。短時間で済ませて、私の2人の弟の面倒を見てくれていました」

 尊敬するのは郷土の偉人・西郷隆盛。二中時代は毎週、西郷がまつられる南洲神社の清掃をし、西郷の遺訓「敬天愛人」(天を敬い、人を愛すること)も大切にした。理系科目への興味を深めていたが、3年生に進級した44(昭和19)年、太平洋戦争が激化。学徒動員が始まり、赤崎さんは同級生とともに鹿屋の航空部隊に派遣された。

 2カ月間毎日、土砂を入れたもっこを担ぎ、戦闘機の格納庫づくりをした。同級生で当時、一緒に作業をした加藤敏雄さんは言う。

「朝、宿舎から2時間歩いて部隊まで行き、日没まで作業しました。3中学の生徒が派遣されていましたが、学校ごとに分かれて、競争させられる。負けたらシゴキや罰走をさせられるので、赤崎君と必死にやりましたよ。食事は麦の飯が少々出るだけ。宿舎では虱(しらみ)も流行し、過酷な毎日でした」

 翌年、終戦。赤崎さんは「日本の産業に貢献したい」との思いから、京都大学理学部化学科に進学した。その後は企業と大学で研究に没頭し、青色LEDの発明に成功した。

 赤崎さんは小学校時代に担任から教わった言葉を今も大切にしている。鹿児島弁の「噛(か)んつけ」――噛みつくように何事も諦めないという意味だ。恩師の教えを愚直に実践しての、快挙達成だった。

週刊朝日 2014年10月24日号