春闘ではベースアップ(賃金が一律に引き上がること)が報じられるが、それでも欧米諸国に比べると労賃が上がりづらい日本。これには終身雇用制が関係していると、モルガン銀行東京支店長などを務め、“伝説のディーラー”の異名をとった藤巻健史氏は指摘する。

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 1987年のブラックマンデーの数日後、モルガン銀行のニューヨーク本店を訪ねた私は当時の資金為替本部長、のちの副会長カート・ビアメッツに、ディーリングルームの真ん中で怒鳴られた。「なぜこの重要なときに、のこのことニューヨークに出てきたのだ。Uターンして東京で指揮を執れ」とのことだった。強面(こわもて)で大柄なカートに小柄な私が激しく怒鳴られているのだから、一癖も二癖もある米国人ディーラーたちも、さすがにかわいそうに思ったのだろう、ディーリングルームが一瞬シーンとなった。すごすごと帰ろうとしたら、カートの部屋に呼ばれて丁重に謝られた。

 新聞報道によると、今春は多くの企業でベアがあるようだ。政府からの賃上げ要請が少なからず効いたのだと思われる。結構なことではある。先日、某米紙記者からこの点について感想を求められた。米国人の目には、「賃上げを政府が民間企業に依頼する」ことが極めて奇異に映ったのだ。「普段から『日本は社会主義国だ』と言っているが、これなど社会主義国家の例として最たるものだ」と答えておいた。労賃は、資本主義国家においては労働市場の需給によって決まるものだ。他社より給料が低ければ労働者は他社に移っていくし、逆も真なりなのだ。政府介入が多少なりとも効果があるのは日本が終身雇用制の国で労働市場に流動性がなく、市場原理がまったく働いていないからだ。

 

 これは果たしていい制度なのか? 失職のプレッシャーがないせいで労働生産性が低いのならば、収益が上がらない企業が労賃に回せるパイは小さくなる。給料を抑えても他社に人材を引き抜かれるリスクがないから、労賃を上げようという企業のモチベーションが低いだろう。

 人材を引き抜かれるリスクがないのならば、厳しい上下関係も存在しうる。カートが丁重に誤ったのは、多少なりとも実績を残し始めた私が怒って、「他社に移っては困る」と思ったからに違いない。上司と部下の関係はある意味、対等で緊張状態にあったのだ。部下を怒りまくる上司が存在する日本とは大違いだ。

 ブラック企業もアメリカでは存在しにくい。皆辞めてしまうからだ。結婚子育てで職を離れた女性の再雇用が伸びないのも、終身雇用制やそれに伴う年功序列制のせいだと思われる。「終身雇用制は雇用の安定に資する」という反論もあろうが、日本全体で考えれば労働力の需要は一定である。終身雇用であろうがなかろうが、誰かが辞めれば、そのポストは次の誰かのために空くからだ。

「労働者の職の安定」と「労賃の上昇」には、為替政策が最も重要なのだ。円高のままではどんな雇用政策を採っても、仕事は強い円で安く買える外国人にいってしまう。産業空洞化だ。円が安くなれば日本人労働力の需要増で仕事は簡単に見つかる。人手不足となるから給料も上がる。私が「人のクビを切る」代わりに「円の価値を切れ」といつも主張している理由である。方法はいくらでもある。

「1ドル=102円の円安になっても、そんなことはちっとも起きない」と言うなかれ。まだまだ円高なのだ。私は国力に合った水準は1ドル=180円から200円だと思っている。

週刊朝日  2014年4月18日号

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藤巻健史

藤巻健史

藤巻健史(ふじまき・たけし)/1950年、東京都生まれ。モルガン銀行東京支店長などを務めた。主な著書に「吹けば飛ぶよな日本経済」(朝日新聞出版)、新著「日銀破綻」(幻冬舎)も発売中

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