内館牧子氏(撮影/写真部・工藤隆太郎)
内館牧子氏(撮影/写真部・工藤隆太郎)

 昨今における日本人の言葉の使い方に警鐘を鳴らした新書『カネを積まれても使いたくない日本語』の著者である脚本家の内館牧子氏。著書の中で過剰な「へりくだり語」と「断定回避語」を問題視する内館氏は、東京大学大学院教授のロバート・キャンベル氏との「寄稿対談」で、理想の日本語の使い方について語った。

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 キャンベルさんと私は主治医が同じという縁で親しくなった。今まで食事やお酒をご一緒しても、堅い話はしたことがなかっただけに、これは「目からウロコ」の刺激的な分析だった。

 私は『カネを積まれても使いたくない日本語』(朝日新書)の中で、昨今の過剰な「へりくだり」と「断定回避」の言葉遣いをやめようと書いた。英語を母語とする外国人として、キャンベルさんがこの2種の言葉遣いをどう思っているか。本当に面白かった。外国も同じなのねと驚いたり、日本語の豊かさを再確認したり、外国人のウイットにうなったりだ。

 昨今の過剰な「へりくだり語」と「断定回避語」は、おそらく表裏一体である。ネットという新手の怖さが生まれた社会で、周囲に懸命に気を使い、きつく聞こえる断定を避ける。その気持ちはわかるが、昨今は過剰である。どこでもかしこでも「させて頂く」を乱用してへりくだり、何にでもかんにでも「みたいな」「かな」「かも」等々をつけ、断定を避ける。

 私は日本語における丁寧語、謙譲語、尊敬語は、世界に誇れる精神文化だと思っている。これら三つもの視座から成る敬語は、取りも直さず日本人の相手を思いやる心と、自身のゆかしさから来ているものだろう。

 しかし、昨今のへりくだり語と断定回避語の乱用は、本来の敬語とは大きくかけ離れていると感じる。「へりくだって、断言しなきゃ安心、面倒なことにならない」という危険回避のマニュアルになっている。キャンベルさんが書いているが、

「英語にはないので、想像がつかない」

 という言葉が、今、日本では乱用され、それがマニュアルである恥ずかしさを考えてみる必要はないか。

 私は『カネを積まれても使いたくない日本語』の中で、スラングも若者言葉も、また新語や造語も、使うことはまったく構わないと思うと書いた。ただ、それらの言葉と端正な日本語との「バイリンガル」であるべきだと考える。もちろん、へりくだり語も断定回避語も、使う場面では当然使う。問題は「過剰」ということであり、それがマニュアルになり下がる。

 キャンベルさんは〈要は「へりくだり」をやめるタイミングを知ることと、自分が過剰に卑下していないかを感知する能力(と若干の勇気)を身にたくわえることが大切なのだ〉と書いている。

 この姿勢こそが、へりくだりのみならず、若者言葉や造語や、またおかしな日本語のすべてにあてはまる。

 文化庁のアンケートによると、若者の実に7割以上が「ほかの人の言葉遣いなどが気になる」と回答している。これから推測しても、日本人の多くは、昨今の日本語はおかしいと、汚いと気づいている。

 ならば、それをやめるタイミングと、その言葉遣いが自分を安っぽく愚かに見せているかを感知する能力を、身にたくわえたい。若干の勇気と共に、それができた時、私たちはみごとなバイリンガルになれる。

週刊朝日 2013年8月30日号