ぴあ株式会社創業者、社長矢内廣(やない・ひろし)1950年、福島県生まれ。72年、中央大学在学中に月間情報誌「ぴあ」を創刊し、74年にぴあ株式会社を設立、社長に。84年に「チケットぴあ」サービスを開始し、現在ではオリンピックなど世界規模のイベントのチケット販売も多数手がける(撮影/写真部・慎芝賢)
ぴあ株式会社創業者、社長
矢内廣(やない・ひろし)

1950年、福島県生まれ。72年、中央大学在学中に月間情報誌「ぴあ」を創刊し、74年にぴあ株式会社を設立、社長に。84年に「チケットぴあ」サービスを開始し、現在ではオリンピックなど世界規模のイベントのチケット販売も多数手がける(撮影/写真部・慎芝賢)

 週刊朝日(8月19日発売号)で連載「これが私の生きてきた道」が始まる稲盛和夫氏(81)。京セラ、第二電電(現KDDI)を創業し、最近では日本航空を見事に再建した稲盛氏が塾長を務める「盛和塾」の門下生でぴあ株式会社創業者、社長の矢内廣氏(63)は稲盛氏のおかげで危機を乗り越えられたという。

*  *  *

 私が稲盛さんと初めてお会いしたのは、1983年ごろだったと思います。

 72年に情報誌「ぴあ」を創刊し、無我夢中でやってきて、76年にはやっと「ぴあ」が取次店を通せるようになりました。ようやく明日が見えるようになり、そのころから、私はアメリカの経営書を読み漁るようになったのですが、でも、どれもピンとこない。それからしばらくして、稲盛さんの著書に出合い、「これだ」と思えたのです。アメリカ型の合理主義だけで会社や社員を見るのではなく、「利他の心」を持って経営を実践していく。これがすごく腑に落ちたんです。

 それから、稲盛さんと当時ソニーの会長であった盛田昭夫さんが交互にお話をしてくださる、盛和塾の前進ともいえる「盛学塾」「盛友塾」という塾生20名程度の大変ぜいたくな勉強会に参加させていただきました。それがご縁で、後に「盛和塾東京」は立ち上げる際は、世話人として参加させていただきました。その後、私にとっては一生忘れることができない、ある出来事が、92年に起こります。

 84年に「チケットぴあ」サービスが始まり、会社は右肩上がりで順調に成長していました。しかし、バブルが崩壊し、創刊から20年がたったころ、ぴあの業績にも陰りが見え始めてきたのです。

 そこで私は、ぴあのマネジメント体制をもう一度見直し、外部役員を入れることで、会社を活性化させようと思いました。そして、その中のある人物に、業績の現状分析とその対応策を考えるよう頼みました。しかし、それから数カ月後、私は突然、その役員から「すべての責任は社長一人にある。辞任してください。これは役員全員の総意です」と言われてしまったのです。理由や経緯を聞きたくても、もはや普通の会話は成立せず、頭を抱えました。

 そして、思い余った私は、京都の稲盛さんのところへ相談に行くことにしたのです。突然の申し出にもかかわらず、稲盛さんは私に時間を割いてくださり、私は詳しい経緯と事情を説明しました。すると稲盛さんに、「矢内君、それはキミが悪い! キミの怠慢が引き起こしたことだ!」と、大きな声で怒鳴りつけられました。生まれてこの方、親にも言われたことがないくらい厳しい叱責でした。稲盛さんは、続けてこうもおっしゃいました。

「人を信頼して仕事を任せたとしても、その結果、自分が解任を要求される、また役員が皆そう思ってしまったのだとしたら、キミの心に隙があったからだ。日頃から社員に目を配っていないことの証拠だ」

 このときの言葉は、本当にありがたく、今でも覚えています。しかも、稲盛さんはその後、わざわざ東京に来てくださり、ぴあの役員会にまで出席してくださいました。

「会社経営というものは、みんなが心を一つにしなければ前に進むことができない。だからもう一度、矢内君を中心にやり直すことを考えてみなさい」

 そんなふうに、役員一人ひとりに言ってくれたのです。稲盛さんのおかげで、この騒動は収束していくのですが、結果的に翌年は創業以来初の赤字に転落してしまいました。しかし、翌々年、「アメーバ経営」を取り入れることで、過去最高益の黒字を出すことができたのです。

 その後、稲盛さんには、ぴあが上場する前の年の2001年にぴあの特別顧問にご就任いただき、経営全般に関して様々なアドバイスをいただきました。あのとき稲盛さんに怒鳴られていなければ、今のぴあも私もありません。人生の師であり大恩人です。

週刊朝日  2013年8月16・23日号