だれにも看取られることなく、ひっそりと亡くなる人が後を絶たない。この冬から春にかけても、都内や埼玉県、北海道など各地で一家や姉妹が孤立死する例が続いた。東日本大震災後、「絆」を見直す動きが強まっているにもかかわらず、孤立死はなぜ続くのだろうか。ノンフィクションライターの橘由歩氏が、今年2月20日に死後2カ月ほどの変わり果てた姿で見つかったAさん(当時64)の足跡をたどった。同じ室内には、妻(同63歳)と長男(同39歳)の遺体もあり、発見時は「一家3人が孤立死か」とメディアをにぎわせた事件だった。

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 Aさんは1947年6月、青森県西目屋村で生まれた。

 Aさんは父が早くに亡くなったため、中学を卒業するまで母の手でこの地区で育てられ、卒業後は二つ上の兄と同じく、弘前市内の職業訓練校で左官技術を学んだ。その後は兄の後を追うように秋田県大館市に移り、兄弟そろって弘前出身の親方のもとに身を寄せ、住み込みの左官職人として働き始めたという。

 当時の弟弟子(60)によれば、Aさんはパチンコにはまっていた。1993年からAさん父子が勤めていた内装会社の社長も埼玉県警の捜査員から「Aさんは青森まで競輪をしに行っていたようだ」と聞かされており、かなりの額をギャンブルにつぎ込んでいたようだ。

 社長は首をひねりながら当時を振り返る。

「パチンコやギャンブル好きな職人たちの話の輪に入ることもなく、賭け事をやっているようには見えなかったんだけどな。ただし、98年か99年ごろだったか、Aから『裁判に負けたので、家を取られることになった』という話を聞いたことがあるんだ」

 Aさんと息子は、01年2月に内装会社を辞めた。社長はその2、3日後に、一家3人そろってあいさつに来た時の様子を鮮明に覚えている。

「こっちにいられなくなったので、東京方面へ行きます」

 こうあいさつしたAさんに、社長は、「稼ぐ当てはあるのか」と尋ねた。Aさんは、「ある」と即答したという。

 Aさん夫妻は秋田を離れる直前、弟弟子の自宅も訪ねている。

「Aは『こっちにいられなくなったので埼玉のほうへ行くことになった。5万円、貸してくれないか。後で送って返すからよ』って言ってきたんだ。でも、夜逃げする男が返せるわけがないから、3万円くれてやったよ」(弟弟子)

※週刊朝日 2012年7月13日号