「坂の上の雲」日本海海戦の栄光と影 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「坂の上の雲」日本海海戦の栄光と影

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週刊朝日

 連合艦隊の観艦式が明治38(1905)年10月23日におこなわれた。横浜沖に軍艦38隻(全165隻)が集結した凱旋の翌々日、『坂の上の雲』では秋山真之が、正岡子規の墓をたずねている。子規が34歳で亡くなってから3年が過ぎていた。真之は軍服ではなく粗末な和服、鳥打ち帽をかぶって出かけている。

 東京・根岸の芋坂で羽二重団子を食べ、そのあと正岡家(子規庵)の門前に立った。家の中から子規の母の八重か妹の律の気配を感じたが、2人にかける言葉が見つからない。

〈真之はよほど長いあいだ路傍で立っていたが、やがて歩きはじめ、しだいに足早になった〉

 そこから子規がいる田端の大龍寺まで3キロあまりだった。坂がきつくなり、人家のまばらな台地に出た。

〈北に荒川の川岸が望まれ、上り下りする白帆が空と水に浮かんでまるで広重の絵をみるようであった〉

 もともと子規の散歩道にあった大龍寺は、当時竹が多く、「竹寺」と呼ばれていた。

「子規居士之墓」
 と書かれた墓の前に立ち、しばらくすると雨になった。

〈雨のなかで緑がはるかに煙り、真之はふと三笠の艦橋からのぞんだあの日の日本海の海原をおもいだした〉

 子規同様、真之の人生も忙しい。「三笠」副長のあと、「音羽」「出雲」などの艦長を歴任し、明治44(1911)年には第一艦隊参謀長となっている。大正3(1914)年には軍務局長として、シーメンス事件の処理にあたった。海軍を舞台にした汚職事件で、この事件で山本権兵衛内閣は総辞職をしている。

 大正5年には第1次世界大戦の視察のために渡欧した。
〈この大戦の進行と結末についての予想をたて、ことごとく的中させた〉
 というエピソードを残している。

 中国の辛亥革命(1911年)にも深い関心を持ち、革命を主導した孫文を支援したことでも知られる。

 プライベートでは4男2女にめぐまれた。男性陣は大、固、中、全と、全員一文字でシンメトリーの名前を選んだ。女性は少子、宜子。少子さんだけ左右対称ではないが、これは「大、中、少」ということらしい。

 長男大が生まれたのは明治39年3月で、子だくさんの生活となったのは日露戦争後のことである。

 評伝『秋山真之』(秋山真之会)によれば、よく水遊びをし、子どもに絵を描いてあげた。多くは馬の絵だったという。絵の見本になるので絵葉書をよく買った。

「毎日役所がひけると東京市内のあちこちの絵葉書屋を歩き回つて、絵葉書を買ひ集めて来ては子供達を喜ばせた。今日は銀座のだ、明日は神田のを買つて来てやるといつた工合であつた」

 真之のその後について、「坂の上の雲ミュージアム」の松原正毅館長に話を聞いた。

「秋山兄弟の生き方は一貫していますね。2人とも軍人として名を成しましたが、志は別にあったように思います。兄の好古は16歳で代用教員となり、最後は松山の私立中学校の校長で終わっている。教育が国づくりには大切だと考えつづけた。真之の場合は結局、文学ですね。彼は文学作品は残さなかったけれど、子規と同じく人間の生き方について考え、悩みぬいた。真之は少将になるのも早く、ずっと海軍のエースとして常に期待を背負いましたが、それだけに終始するつもりは最初からなかったのかもしれません」

 司馬さんは、日露戦争後の真之の関心事について書いている。

〈人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった〉

 真之は晩年、宗教など精神世界に深く関わっていく。

「講演録などを見ると、できるかどうかは別として、世界から戦争を廃絶するにはどうしたらいいかと考えていたようです。海軍としては若きエースが反戦になってはたまりませんが、これは単に反戦思想というより、日露戦争で過信してしまった日本では、今後の総力戦となる近代戦は戦えないと考えていたことも大きいですね」

 司馬さんは『坂の上の雲』のあとがきで、日露戦争後の日本について書いている。

〈日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る〉

 この思いは現場にいる真之の場合、より切実だったようだ。

 国家を見つめ直す必要があると考え、さらには西洋思想に基づいた近代国家制度への疑問へと進む。

「仏教や神道といった東洋思想に基づいた国づくりをするならば、戦争をしなくてもすむ可能性もあると考えていたようです。これが宗教への傾斜のひとつのきっかけとなっていると思います。日蓮宗、さらには大本教との関係が深まっていく」

 大本教は明治25(1892)年に教祖・出口なおにより始まり、娘婿の出口王仁三郎が京都府綾部に教団をつくった新興宗教。大正期から多くの信者を得ている。高橋和巳の小説『邪宗門』は大本教をモデルにしたもので、大正10年、さらには昭和10年にも弾圧されている。

「それまでの宗教の国家的な弾圧といえばキリシタン弾圧があるぐらいです。大本教が弾圧された理由のひとつとして、大正5年12月中旬から年末にかけ、京都府舞鶴から海軍将校が連日のように大本教を訪ねてきています。海軍だけでなく、陸軍の若い優秀な青年将校が大量に信者となっている。政府としては見過ごせないと考えたでしょうね」

 真之は大本教本部を大正5年12月中旬、さらには大正6年6月に訪ねている。

「真之は海軍のカリスマ的な存在ですから、若い部下たちに影響を与えたことは想像できます。ただし、出口王仁三郎の孫の京太郎さんに調べてもらったところ、教祖の顧問になった記録はあるが、信者になった記録は出てこなかったそうです」

 真之の精神世界への憧憬を受け継ぐ形となったのが、長男の大だった。

〈自分の長男の大に僧になることをたのみ、げんにその長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えた〉

 大は僧の資格を得たあと、横浜の「財団法人 大倉精神文化研究所」(創設者大倉邦彦、現理事長高井祿郎)の嘱託研究員になっている。

 著書『古代発見』には、父真之のエピソードが綴られている。

 真之は母の貞が大好きだった。

 旅順港封鎖作戦が終わって東京に戻り、夜にもらい湯をするとき、母の貞を背負った。

「お前、ゑらう名をお挙げたな」
 と、貞がいったという。

 貞は真之が海軍に入ったとき、男雛、女雛の「紙雛」を渡している。昔から自分が持っていたもので、
「水に縁のあるものや、船に乗るものは必ず紙雛を肌につけてゐなくてはいけない」
 といったそうだ。以来、真之はそれを妻の季子が作った濃紅色の唐草模様の袋に入れ、海上に出るたびに肌身離さず持ち歩いた。

「あの日本海海戦の三笠艦橋の上でも、祖母の紙雛は、父の軍服の内ポケツトの中にあつたのである」

 大は伯父の好古と対比している。

「若しこれが伯父であつたならば、たとひ祖母からそんなものを渡されても、『お祖母さん、これはなんかな』といつたきりで多分忘れて行つて了つたであらうし、また祖母も伯父の方ならば、どんなことがあつても大丈夫だと信じてゐたから、初めから渡しもしなかつたであらう」

 貞は日本海海戦の勝利を見届け、明治38年6月19日に亡くなっている。

〈真之は佐世保の旅館の一室で終夜号泣した〉
 と、司馬さんは書いている。

 大正7(1918)年2月4日、真之も49歳で世を去った。盲腸炎からくる腹膜炎が悪化したもので、
「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」
 というのが最後の言葉だった。

『秋山真之』では、父の宗教問題について、大が語っている。

「父の生涯を通じて、さういふ問題に無反省の前半生よりも晩年の十年ばかりの間悩み続けて来た間が、父が人間としてむしろ意義ある時代ではなかつたかと思ひます」

 真之が亡くなったとき、大は数えで13歳だった。喪が明け、父が大切にしていた袋を開くと貞の「紙雛」を見つけた。

「父が幾度か手に握りしめて、内ポケツトに押し入れたに違ひない。紙雛はもう顔形もわからず、男雛の袖も女雛の裳腰も折れくであつた」

 文学を志し、軍事を考え、国家を思い、宗教に傾斜した。真之の激動の生涯は、母の「紙雛」が守っていたのかもしれない。

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