宮城県気仙沼市の市街地から南へ10キロほど行った気仙沼湾の入り口に、「岩井崎」と呼ばれる岬がある。石灰岩の岩場に波が当たって起きる「吹き潮」で知られる景勝地だ。海沿いを通る国道45号からその岩井崎へ向かった脇に、目的地の工場があるはずだった。

 辺りは一面、震災直後に襲った大津波にのまれ、瓦礫(がれき)の山になっていた。工場地帯であるこの辺は、市街地での捜索活動が終わった自衛隊や消防がようやく入ってきたところで、ジープやトラックが砂埃を巻き上げながら行き交う。その中にぽつんと、「高橋工業」と書かれた工場の一部が、かろうじて立っていた。

 1千坪の敷地に「コ」の字形に立っていた1千平方メートルの工場は、2辺が吹き飛ばされ、跡形もなくなっていた。隣にあった冷凍倉庫から流されたマグロやカツオのせいだろうか、周囲は鼻を突くような腐臭が漂う。

 「あの鉄の塊が全壊だもんな。残ったのは借金だけだよ」

 傍らに立ちつくしながら、同社の高橋和志社長(54)が呟いた。7年ぶりに記者と再会した彼は、途方に暮れていた。

 気仙沼の一町工場である高橋工業(同市波路上内沼)は、建築業界でちょっと知られた存在だ。

 同社は、もともと造船会社。前身は「高橋造船」といった。7代目の高橋さんは江戸時代から代々、船大工の棟梁の家系である。

 日本有数の遠洋マグロ延縄(はえなわ)漁船の基地だった気仙沼は、造船の街でもあった。同市の造船業のピークは1970年代。造船会社は船の設計・建造に加え、寄港した漁船の修理を担い、売り上げの大半を遠洋漁業、北洋漁業の漁船に頼ってきた。ところが、77年の200カイリ規制以降、北洋漁業が縮小し、80年代に入って遠洋漁業も、魚価の安定やマグロ資源の温存を理由に大幅な減船が始まった。

 高橋造船も、鋼船時代に入った50年代以降、主にマグロ船やトロール船など100トン級の漁船を造ってきたが、時代の波にはあらがえず倒産。85年に、従業員約20人の町工場に転身した。

「なんぼ腕がよくても、技術が求められていないのならしょうがない。生き残るため、海がダメなら陸(おか)に行くしかなかったんですよ」(高橋さん)

 従業員は、昔から一緒に船を造ってきた仲間、そして遠洋マグロの元漁師、漁船の元機関長--みんな、海の男たちだ。そして、その卓越した造船技術が、未知の世界で生き抜く力となった。造船の世界で当たり前の、自由自在に鉄板を曲面加工する技術が、建築業界で重宝されたのだ。

「船を造ってきたんだから、鉄板を曲げたり、くぼませたりするのはお手のもの。ちょろいもんですよ。だけど、それがゼネコンや建築家にはできなかったんだな」(同)

 建築の構造力学と造船の流体力学は、まったく別物として発展してきた。鉄を熟知した職人集団--建築業界では、そう知られるようになった。

    ◇    ◇

 3月11日午後2時46分、高橋さんは工場にいた。

「揺れがひどかったから、従業員は全員帰して、自分は弟の工場長と一緒に高圧ガスのボンベを止めて回って、3階の事務室に上がったんです。そのときに、ふと窓から海のほうを見ると、入道雲みたいなのがモクモクわいている。『何かなあ』と思ったら、それが波だったんですよ」

 岩井崎の先に見える入道雲は、上の部分がしぶきで白くなっていた。それが遠くからスピードを上げ、もう10~15キロ先まで迫っていた。

地震から20分くらいでしたか。まさか、と思いました。防災無線は『4~5メートルの津波』と言ってたんで、3階なら大丈夫だと思ってましたからね。すぐに車で逃げました。それから数分後ですよね、ものの見事にすべてをのみ込んだ。後ろも振り向かずに国道に出ると、沿岸の家が流されるのが見えました」

 家族は大丈夫か--自宅に駆け込み、妻と長男、そして83歳になる老父を連れて裏山に上がろうとしたその瞬間、家の中に水が流れ込み、あっという間に床上まで浸水した。

「自宅のある国道沿いの地域は、標高15メートル程度で絶対に津波が来ないと言われてました。うちは代々、もう140年くらい住んでいますが、多くは昭和三陸地震(33年)の大津波にやられて移り住んだ人たち。それが、ほとんど流されてしまった。親父も、そこまで津波が迫っているというのに、『なあに、ここまで来たら、もう日本は沈没なんだから諦めたほうがいい』などと冗談半分に言ってたほどです」

 自宅を守ったのは、7~8年前に国道に面して造った強固なコンクリート塀だった。

「運良く、なんとか生き延びた。ただ、これからは生き延びただけじゃなくて、現実が始まるということだよ」
    ◇    ◇

 高橋工業は、アート系建築物で知られる。早稲田大学教授で建築家の石山修武(おさむ)氏が設計した気仙沼市の「リアス・アーク美術館」(94年オープン)、仙台市の複合文化施設「せんだいメディアテーク」(同01年)などの外装で注目されると、次々と注文が舞い込んだ。

 04年に手掛けた東京・銀座の高級服飾ブランド「ランバン」のブティックは、同年度の建築デザイン賞を総なめにし、代表作となった。実はその取材が、高橋さんと記者との付き合いの始まりだった。

「オレらは陸で船を造っているんだ。そう思ってずっとやってきた。発想はすべて船。忘れてしまうと、いつか船に戻れなくなってしまうから」

 当時、高橋さんはよくそう言っていた。

◆「すべて失って借財が残った」◆

 工場は全壊し、溶接機器や計測機器などもすべて失ったが、家族は全員、無事だった。子どもは4男1女。22歳の長男・聡稚(としのり)さんは現在、高橋さんの母校、長崎造船大学(現・長崎総合科学大学)に通う。

「でもね、設備投資のローンなど借財が残っているからね。中小企業って、保証人は社長本人なんだよ。何もかもなくなって、どうすればいいのか。後継ぎのない人は、もう辞めるんだよ。オレには子どもたちがいるし、歴史もある。ここで隠居するわけにはいかない。だから、やる気ではいます。まずは自分で自分のケジメをつけて、8代目につなぐ。技術を息子に伝えたい。船大工の親父は、山林の木の生え方を見て、船のどの部分にそのカーブが使えるか、すべて頭に入っていた。この技術も息子に教えなきゃな」

 皮肉なことに、本当ならば震災翌日、阪神大震災(95年)から15年という節目で神戸・三宮センター街の商店街から発注を受けたアルミ製シェードを納品する予定だった。

「商店街の情報発信の場として設置する大型屋外ビジョン用のものでしたが、ぜんぶ流されてしまった。商店街の理事さんとは、震災1週間後にようやく電話がつながりましてね。『1年後でもいいので、もう一度、製作してほしい』と言ってもらいました。ありがたい話ですよね」

 そして、さらに嬉しい知らせが舞い込んだ。高橋工業が手掛けた住宅「IRONHOUSE(アイアンハウス)」(東京・世田谷)が4月12日、国内で最も権威あるとされる日本建築学会賞の作品部門を受賞したのだ。

「構造家の梅沢良三さんの自宅で、屋根も壁も床もぜんぶ鉄。マグロ船に入れる断熱材も使った。高橋工業の"最後"の作品が、ついに建築学会賞だからね。これで、よかったんじゃないかな」

 いま高橋さんの携帯電話には、銀行や損害保険会社などからひっきりなしに連絡が入る。リースのトラックや機器がどうなったのか、3月末の支払いはどうなっているのか、などの問い合わせである。

「彼らは事務的にやっているんだろうけど、正直、それどころじゃない。気仙沼では遺体も見つからず、まだ区切りがつかない人がいっぱいいるんだ。まあ、どうとでもしろという話ですよ。これが現実だからね。また一からやると思えばいい。ここでめげて寝込んでいたら、息子たちに笑われます」

 そう話している途中にも、何度も携帯が鳴った。

 別れ際、何と言って励ませばいいかわからず、「ご家族によろしくお伝えください」とだけ言うと、高橋さんは自分の腕をたたきながら笑った。

「大丈夫ですよ。オレにはこれがあるから」

 その後ろで夕日が、気仙沼の街を淡く赤く染めていた。 (本誌・鈴木毅)


週刊朝日