【復刻】週刊朝日トリビア はみ出し純情系 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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【復刻】週刊朝日トリビア はみ出し純情系

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週刊朝日

創刊85周年記念企画

見る前に知っておきたいパンダトリビア20」(2011年04月15日号)のついでではありませんが、懐かしい記事を見つけました。ご笑納ください。

◇「週刊朝日」は瀬戸内寂聴さんと同期
 1922年生まれの有名人は、漫画家の水木しげる、画家の故・山下清、俳優の故・丹波哲郎など。なお、この年には作家・芥川龍之介が「トロッコ」を発表、ソ連が誕生し、日本共産党が結成された。

◇創刊号は卵より安かった
 創刊号の定価は10銭。当時の物価は、たばこ(ゴールデンバット)が6銭、牛乳180ccが8~10銭、映画館入場券が30銭、卵(100匁=約375g)が38銭、赤玉ポートワインが80銭。卵って、ずいぶん高かったのね。

◇創刊時のスタッフはわずか14人
 す、少ない! 創刊時の編集部は大阪の朝日新聞社にあったが、戦局悪化に伴い、当局からの通達が増えたため、1941年秋、編集部を東京に移した。ちなみに現在の常駐スタッフは約30人。

◇創刊当時、目指していたのは「ロンドン・タイムス」
 当時の編集方針は「ロンドン・タイムスのようなニュース週刊誌」「学芸本位の内容」「ロンドン・エコノミストのような経済週報」。......あちゃー、85年もたつと、ずいぶん遠くに来てしまったようで。

◇最初の増刊号が出たのは創刊の4カ月後
 1922年7月、初の臨時増刊号「溢るる涼味」を発売した。四六4倍判で全72ページ、定価は30銭。芝居噺、怪談などを盛り込み、20万部が即完売した。なお、創刊から19年で112冊もの増刊号が発行されている。

◇B5判になったのは第2次世界大戦が原因
 創刊当初は現在の約2倍(四六4倍判)だったが、第2次大戦中の1940年11月、商工省が「用紙規格規則」を公布。日本基準規格以外のサイズの出版物が刊行できなくなったため、B5判に変わった。

◇週刊朝日の「北海道版」があった
 1946年5月~47年7月、北海道に朝日新聞社出版支部が設けられ、約2万8000部発行された。理由は戦後直後の用紙対策だったとか。

◇「太宰治に捧げる山崎富栄の日記」は週刊朝日のスクープだった
 『人間失格』や『斜陽』など、数多くの名作を世に送り出した作家・太宰治。1948年に玉川上水で心中するが、そのとき死を共にした山崎富栄の日記を掲載したのが本誌。16ページを費やした大作だった。

◇松本清張が初めて小説を書いたのは週刊朝日
 1951年、『西郷札』が本誌の懸賞「百万人の小説」に入選したことがきっかけで、小説家としての第一歩を踏み出した。後に松本はこう語っている。「週刊朝日は、作家としての私の生みの親でもある」。

◇直木賞作家・南條範夫がデビューしたのも週刊朝日
 松本清張が入選した年、南條も『出べそ物語』で懸賞小説に入選した。当時は大学で教鞭をとりながらの作家活動だったが、1956年に『燈台鬼』で直木賞を受賞。時代小説家として花が開いた。

◇「第1回」菊池寛賞を受賞した
 菊池寛賞は1939年に設けられたが、6回で中止に。その後、菊池氏が没したのを機に1952年に復活した。その復活後の第1回受賞者が、扇谷正造編集長(第14代)と週刊朝日編集部だった。

◇発行部数153万9500部を記録したことがある
 100万部達成から3年3カ月後の1958年の新年号で記録。これも扇谷編集長時代の話。なお、扇谷編集長の在任期間は1951年5月~58年9月の約7年3カ月。戦後34代の編集長のなかでは最長記録だ。

◇「夫の月収2万5千円」の家庭が対象読者だった
 扇谷編集長が描いた読者層は「旧制高女二年程度の読み書き能力に、プラス人生経験十年、夫の月収二万五千円、こどもが二人くらい」。都市生活者の平均月収が約2万円の時代。セレブ志向だった?

◇テレビドラマになった「デキゴトロジー」がある
 78年11月3日号から04年3月19日号にかけて連載されていた「デキゴトロジー」(途中、1年ほど中断)。草創期を支えたライター森下典子さんが京都・祇園の舞妓に入門した顛末を書いた「典奴(のりやっこ)どすえ」が87年、TBSでテレビドラマ化された。主演は賀来千香子。なお、ドラマでは担当デスクが「セクハラオヤジ」として描かれていたが、本人は「事実と違う」と激怒したという。

◇単行本「デキゴトロジー」の出版元はなぜか新潮社
 どうなってんだ、朝日新聞社?(笑い)しかも、印税は執筆したライターではなく編集部に入ったために、部内では「デキゴトバブル」が到来。忘年会の景品が豪華になるなど、急に羽振りがよくなったとか。なお、90年代に入って一度中断した連載が復活した際、朝日新聞社から文庫本が出版されたが、新潮社の単行本ほどは売れなかったという。

◇ホステスと間違えられた表紙モデル候補がいる
 篠山紀信氏が女子大生の表紙モデルを撮影した「キャンパスの春」。書類審査を経て面接のオーディションが行われたのだが、会場が東京・銀座だったことに加え、会場に集まった女子大生が毛皮のコートをまとうなどの派手な身なりだったため、周囲からは「クラブのホステスがやってきたのか」と勘違いされるハメに。なお、面接には遅れてやってきた地味な学生がいた。その人こそ、第1回の表紙を飾った宮崎美子である。

◇女性器を示す「禁断の4文字」が見出しで躍ったことがある
 上野千鶴子氏のジェンダー論を取り上げた88年8月26日号の記事。その名も〈フェミニズム学界の「黒木香」を誇る上野千鶴子の明るい「おまんこ宣言」〉。当然、新聞広告には載らなかった。

◇素人なのに「超伝導体」を製造した記者がいる
 87年5月22日号で詳報。当時、物理学会では超伝導体の製造発見競争が話題になっていた。大学の研究者に「大丈夫、あなたでもできる」と励まされた本誌・五十嵐文生記者は、薬品類や液体窒素タンクを編集部に持ち込み実験に及んだ。約1週間後、超伝導体を磁石の上に浮上させることに成功。ちなみに実験にかかった費用は、たったの5万円。それでも、1億円の装置を持つ研究所と互角の勝負をしたのだ。

◇ナビシステムの実験取材で死体を発見した記者がいる
 「富士山の青木ケ原樹海で使っても迷子にならないのか」と疑問を抱いた本誌・大慶順一郎記者は、ナビを携えて樹海を横断(92年12月11日号)。ほとんど誤差なく使えたが、若い女性の死体を発見した。

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