咲き誇る花の美しさは今の時季しか楽しめないもの。誰しも少しでも留めおきたいと願いますが自然は容赦がありません。風が吹き、冷たい雨となって花におそいかかります。花はただ受けとめ、花びらは雨を含み、形をくずした姿のまま雨風が過ぎて行くのを待つしかありません。お花見はお預けと落胆ばかりしてしまいそうですが、変わりやすい春の天気の中でもじっと花を見つめてみましょう。その時々に見えてくる景色が、きっと心に何かを響かせてくれそうです。

「春雷」には命を育てる底力があります

雷といえば夏の定番ですが、温かさと寒気がせめぎあう春もまた雷が鳴ることが多いようです。立春を迎えてはじめて鳴る雷を「初雷(はつらい)」、また「啓蟄(けいちつ)」の頃に鳴る雷は「虫出し」または「虫出しの雷(らい)」と名付けられ、どうやら春を引っ張りだす役目は雷が担っていると言えそうです。

≪どろどろと桜起こすや一つ雷≫ 野坡

蕾が連なった枝から桜を一輪パッと開かせるのはきっと雷、と俳人は感じたのでしょう。春の雷は長く続くことなくひとつふたつと鳴っておさまるためか、ハッとさせられ印象に残ります。天から地上に春の目覚めを促す一声とも考えられませんか。

≪あえかなる薔薇撰りをれば春の雷≫ 石田波郷

「春の雷」はまるで祝福、薔薇のはなやかさに夢中になっている作者にはそんな風に聞こえたのでしょう。雷を楽しんでいるようすは、春を喜ぶ明るい心の表れといえましょうか。
「春雷」の放つ豊なエネルギーが、生きとし生けるものを活動へと押し出していき、受け止める大地も生命をいつくしみ育てていけるのかもしれません。

雨に打たれる桜を惜しむ

桜の花の咲く頃に降る雨は「桜雨」または「花の雨」などと呼ばれています。咲き誇る桜の花が雨に打たれる姿は、花が盛りであればあるほど濡れそぼたれた時の寂しさはひとしおです。

≪春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも≫

万葉の歌人は降る雨に語りかけます。「ひどく降らないで、桜の花をまだ見ていないのに散ってしまうのは惜しい」と、なんとも切ない嘆きが聞こえてきます。花といえば梅をさした奈良時代の人々にとっても、桜の花はやはり特別な存在だったのでしょう。

雨が降ってばかりではせっかくの花が散ってしまう、はやく春の日ざしを浴びて光を放つ桜の穏やかな美しさを見せて欲しい。こんな声は万葉人だけではありませんね。歌を読んでいると時代を越えて現代の私たちの声とも重なって聞こえてきます。

雨に打たれる桜をみて思うのは?

大気中の水蒸気が冷えて水滴となり地上に落ちてくれば、それは雨。同じ雨でもさまざまな感性を働かせて、その時々の季節を感じる生活をしてきました。桜の季節に雨が降れば桜が思われ、やはり気にかかってしまいます。「桜雨」や「花の雨」と呼んでしまうのもしかたがありません。

風が吹き雨になれば気温は下がり、花も開くのを止めて静かに次の時を待ちます。咲いた花は形を変えしずくをたらし、なんと寂しい光景でしょう。花の時季には必ずやってくる花冷えです。三十六歌仙にもえらばれた平安の歌人は、雨に打たれる桜を見ながらこんな思いを寄せました。

≪春雨の花の枝より流れ来ば 猶こそ濡れめ香もやうつると≫ 藤原敏行朝臣

前書きに「寛平の御時、桜の花の宴ありけるに、雨の降り侍りければ」とありますので、今でいえば、楽しみにしていたお花見の宴会が雨になりおあずけ状態、といったところでしょうか。ところが、がっかりなどせず桜の花を打つ雨に注目し、さらに香りへと心を運んでいます。

この時もきっと花冷えの日だったことでしょう。花の香がわが身に移るように、桜の枝を伝わってくる雨のしずくにもっと濡れよう、とはなかなか大胆です。貴重な桜の季節に雨が降っても、もしこのような心意気を持てたなら、なんて思いませんか? そうすれば私たちも令和の風流人と言えそうですね。

参考:
佐竹昭広著『新日本古典文学大系 万葉集2』岩波書店
片桐洋一著『新日本古典文学大系 後撰和歌集』岩波書店