季節は二十四節気「清明」。全ての命がすくすくと成長期に入る清々しく明るい季節をあらわしています。二十四節気は、人の一生とも対応します。「清明」は幼年期を過ぎて、自我が芽生え、大人への助走が始まる少年期にあたります。平安時代中期は手本と仰いだ親的存在であった唐が滅亡しています。中国と袂を分かち、国風文化の興隆が始まるこの時代は、日本文化の少年期にあたるかもしれません。その時代の王朝に大衝撃を与えた事件こそ、新皇を僭称したとされる平将門の「天慶の乱」でした。後編ではいよいよその死と、将門の神格化について叙述します。

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今なお語り継がれる平将門伝説。その生と死とは?(前編)

筑波山あおぐ常総の原野を駆け抜けた将門。その戦いははぐれ者たちの為のものでした
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大敵良兼撃破。将門の武勇轟く

常陸の土豪・源護の娘たちと婚姻関係を結んで結託した伯父らによって下総介だった父の遺領を奪われた将門は、農地に向かない石井(岩井)・猿島の豊田郷の領地の谷津田の地形を利用して、軍馬育成の牧とし、またすでにこの頃には関東にも伝わっていた製鉄技術を用いて刀剣や槍を鍛錬し、弓馬術を磨いて精鋭軍団を作り上げました。

騎馬刀剣の軍事力に加えて、将門自身の圧倒的な戦闘能力と生来の性向もまた強さの所以でした。戦略に長けていたわけではありませんが、敵が強大な時ほど将門はその強さを発揮しました。軍勢の先頭に立ち、歯噛みしながらがむしゃらに襲い掛かって相手を敗走させます。敵方の死者の数は非常に多く、当時の戦としては群を抜いて攻撃的で容赦がない戦いぶりであったとも言われています。

承平五(935)年十月、新治郷川曲(現在の茨城県八千代町付近)で将門の叔父の一人、良茂は将門と合戦に及びますが、60人以上の味方を失い敗走し、兄の上総介・良兼に助けを求めます。

良兼は次男ながら父・高望王の上総介の地位を受け継いでいること、源護の長女を正室として娶っていることからも、高望王チルドレンの中でもっとも有力な実力者で、実質的な族長でした。上総の所領に加え、下総、常陸、下野にも所領を持ち、将門を窮地に追い込んだのは親類の中では唯一良兼のみです。

上総武射郡(むさぐん 現在の千葉県山武市・東金市付近)と常陸真壁羽鳥(現在の茨城県桜川市)に居館を構え、知略・人望にも長け、父・国香を殺されたにも関わらず、武勇に優れる将門と対峙することにひるんでいる甥・貞盛に対し「兵(つわもの)にあらず」と厳しくなじり、対将門陣営に強引に巻き込んでいます。

承平六(936)年六月、上総・下総から「雲ノ如ク湧キ出デ」(『将門記』)た三千余の大軍を率いて良兼は香取海を船で遡り、下野(栃木県)に至り、将門のいる下総豊田郷に北側から進軍します。

しかし将門は僅か100余騎の精鋭を率いて良兼の大軍を急襲、人馬80余をたちまち討ち取って良兼軍を打ち破ります。良兼は下野国府に逃げ込みます。将門は、良兼を討ち取ることは容易だったにも関わらず、「同じ平氏の一族である」と西の出口を意図的に解いて、良兼を逃がしました。

このとき将門は戦直後に経緯顛末を国庁の公文書にとどめてから軍勢を引き上げています。将門は、国香との戦いや良兼との戦い、あるいはその後の武蔵国に乗り込んでの足立郡司・武蔵竹芝と武蔵国権守(ごんのかみ 臨時長官)興世王、武蔵国介(次官)源経基の争いの仲介で兵を進めたことなど、何度か訴追を受けていますが、家人を務めた藤原忠平に懸命な書状を送ったり、京にのぼって自ら弁明するなどして、その度に赦免されています。朝廷に対して気配りを怠らない遵法意識もあり、単なる肉体派の荒武者ではなかったこともわかりますし、そのような記録が、後に『将門記』の編纂にも役立つことになったようです。

その後も将門と良兼は何度も戦います。良兼は、一族の祖である高望王、亡き長兄・国香もしくは将門の父・良持ともされる霊像を先頭に押し立てる作戦で、動揺した将門を敗走させ追い詰めもしました。しかし、石井の陣で休む将門を精鋭を引き連れて急襲するも、またも無勢の将門に返り討ちにされ、40余名の伴類を失う敗北以降、将門との戦いから手を引き、数年後上総で亡くなりました。

東関東の土豪の雄ともされる平良兼を打ち破った将門の名は、この頃から諸国に轟くようになっていきます。

下総北西部で将門は最強の騎兵軍団を作り上げました。そのおもかげを残す渡良瀬遊水池
下総北西部で将門は最強の騎兵軍団を作り上げました。そのおもかげを残す渡良瀬遊水池

将門を突き動かしていたもの…それは疎外感だったのか

親類縁者に疎まれ、京での出世にも失敗している将門にとっては、従兄弟の貞盛(清盛の祖先にあたります)は親類縁者ともむつまじく、また京でも下位士官ながら官位を得ていて、コンプレックスの対象でした。良兼との連合が敗北後、将門から逃げ回っていた貞盛が、父・国香の仇である将門訴追の官符を朝廷から取り付け、常陸に戻ってきます。

伯父・良兼はすでになく、貞盛が頼ったのは常陸介・藤原維幾(これちか)でした。維幾は高望王の娘、つまり将門の父や貞盛の父の姉妹、二人にとっての伯母(叔母)にあたる女性を娶っている親類筋。またしても将門は、親類縁者から疎外され、心ならずも戦う苦渋と対峙しなければなりませんでした。維幾の子、藤原為憲も従兄弟の将門追討の仲間に加わり、常陸国司からは貞盛・為憲の画策により再三将門に出頭命令が出されます。

そんな折、武蔵国司から追われた札付きの悪党・藤原玄明(はるあき)が将門のもとに逃げ込んできます。玄明は常陸霞ヶ浦付近に根付いた土豪で常陸掾でもあった藤原玄茂(はるもち)の眷属で、「国の乱人」「民の害毒」と表現されています。『将門記』は、玄明を将門を叛乱に唆した悪人として描いていますから、その評価は必ずしも正当とは言えないものですが、いずれにしても藤原氏の血統でありながら都での居場所がなかった玄明を、将門は受け入れました。

玄明を引き渡すよう、常陸国府から将門へ移牒(いちょう 役所の通告文書)が届いても将門は応じず、玄明をかばいました。ここには、のけ者、排除された者に対する共感と同情、そして排除した側こそが悪であるという将門の強い信念(思い込み)がうかがわれます。折しも常陸介の藤原維幾のもとには、国府の通常の備えを大きく超える3,000余の兵力が集ってきていたことも知り、将門は態度を硬化させます。そして天慶二(939)年十一月二十一日、千余の従者伴類を引き連れて、常陸国府へ進軍しました。あわせて自身の最大の後ろ盾とも恃(たの)む藤原忠平宛てに書状を送っています。

国(常陸国府の事)はかねて警固を備えて将門を相待つ。将門陳(の)べて云く、「件の玄明等を国土に住せしめて、追補すべからざるの牒を国に奉る」と。しかるに承引せずして、「合戦すべき」の由、返事を示し送る。よって彼此(常陸国府と将門)するの程に、国軍三千人、員(かず)の如く討ち取らるるなり。将門が隋兵僅か千余人

「『玄明を常陸国に安住させてやってほしい』という私の頼みも聞き入れなかったため合戦とあいなりました。国府軍は三千人、私の軍は僅か千人です。」と弁明しています。そして、自衛のためには戦わざるを得ない、としています。

将門軍はまたも無敵ぶりを発揮して三倍の敵を圧倒し、常陸国府を占領してしまいます。が、戦いで捕縛したかった二人、貞盛と為憲は落ち延びています。国府を占領するというのは県庁と県警を襲って占領するようなものですから、大ごとではあります。

将門軍は十二月十一日に下野(栃木県)国府、同十五日には上野(群馬県)国府を襲撃、国司を関東から追い出してしまいました。このとき、上野の八幡神社で一人の昌妓(かんなぎ 巫女)が神がかりとなり、「朕(ちん)が位を蔭子(いんし)平将門に授け奉る」と宣言し、八幡大菩薩すなわち応神天皇の霊魂が、帝位の血を引く将門に皇位を授けたという有名な出来事が起こります。そして下総国の亭南(柏市付近と推定)に宮殿を建て、将門を新皇として関東各地の国司に眷属を配する人事を行い喜んだ、とされますが、これらは後の「天誅」に向けての創作でしょう。いずれにしても、将門は義侠心からかばった悪党を原因に、国家への叛逆の道に踏み込んでしまったのでした。

将門の新皇宮予定の地ともされる千葉県我孫子市の北星神社。九曜紋にご注目ください
将門の新皇宮予定の地ともされる千葉県我孫子市の北星神社。九曜紋にご注目ください

一瞬の輝きを放ち武神、春の野に散る

将門謀反の知らせは、十二月二日には朝廷に届いています。さらには十二月二十六日、瀬戸内海の摂津(大阪府)で、海賊を擁する藤原純友が、播磨介と備前介を捕縛するという反乱が勃発、朝廷は東西相呼応した王朝転覆の大叛逆だと大騒乱になりました。『本朝世紀』(平安期末 藤原通憲)には、

謀(はかりごと)を合せ、心を通わせ、此の事を行う

と、将門と純友が兼ねてより連携して叛乱を起こそうと計画していた、と記しています。将門は純友を知らなかったとはいえ、純友の方は将門の叛逆を見て行動に及んだ形跡が、『純友追討記』からは確認することができます。

朝廷は全国の有力諸寺社に、位階引き上げを約束して、将門呪詛の令を下しました。

一方で現実的な対策として追補使の任命と派遣も速やかに行われています。征夷大将軍の任命と同時に、「太政官符」で東海道と東山道の諸国の郡司に、将門を討てば官爵(貴族)への登用と田地の褒章を約束して、将門追討の兵を募っています。

それに呼応し、将門の喉元に近い地域では、良兼の息子である平公連・公雅兄弟、下野掾・藤原秀郷、そして仇討ちを狙う貞盛と為憲が呼応し、連合軍を形成することになります。

将門はといえば、この頃将門を慕う伴類は一時期5,000人にも達していましたが、彼らのほとんどが農民であることから、春の農耕開始時に合わせて、そのすべてを国元に帰してしまいます。かくして、叛逆人将門は、もともとの豊田郷の従者400人程度と玄茂一族、実弟たちのみで下総にとどまっていました。

総勢4,000人にも膨れ上がった追討連合軍に、圧倒的に数が少ない将門も苦戦しますが、例によって獅子奮迅の勇猛さを発揮して、長く互角に戦い続けます。

そして天慶三(940)年二月十四日、春一番が吹き荒れる馴れ知った原野で、風上に立った将門は鬼神のごとき活躍で貞盛軍を攻め立てて80有余人を討ち取り、敗走させます。恐れおののいた連合軍の伴類3,000人は蜘蛛の子を散らすように逃げ散じ、将門は貞盛、秀郷、為憲らを追い詰めます。

しかし、このとき、天による差配か、南風が一瞬北風に向きを変えました。そして、貞盛が放った矢が将門のこめかみを貫き、落馬した将門に秀郷が駆け寄って首を掻いた、と『将門記』は伝えます。実際には勢いに乗じて攻め込んだ将門に、兵の放った流れ矢が当たったのでしょう。

坂東の英雄は、流れ星のように一瞬の光芒を見せ、あっけなく潰えたのです。

後日譚として、将門の所領であった相馬地方は、将門の縁者の中で唯一の味方だったともされる叔父の良文に与えられていますが、良文の三男・忠頼は将門の次女・春姫を娶り、この系統から千葉氏が生まれています。つまりおよそ150年後、源頼朝に加勢した千葉常胤は将門の子孫。将門の仇・貞盛の子孫である平清盛打倒のために頼朝に加勢したのでした。

成田山新勝寺の光明堂。将門調伏の寺のはずの新勝寺は実は密かに将門を祀っている?
成田山新勝寺の光明堂。将門調伏の寺のはずの新勝寺は実は密かに将門を祀っている?

なぜ将門はこれほど信仰されるのか?その正体は?

生前の将門は決して庶民の味方というわけではありませんでした。むしろ土豪一族の争いに明け暮れて農地や住まいを荒らしまわる迷惑な存在ですらあったでしょう。

しかし、その言動には一貫した信念がありました。それは、仲間外れにされた者、排除され疎んじられ、疎外された者たちへの強い共感と、その者たちを命を懸けて守り抜こうとするまっすぐな義侠心です。現代人からすると、いや千年前の人々ですら、あまりにもその生き様は素朴で愚直に過ぎると思えたことでしょう。

将門は、どれほどの難敵にも怯まず、難敵であればあるほど、自らが先頭に立って戦いぬく比類のないつわものぶりを発揮しました。

すでに古代から抜け出した中世の始まりの時代、突如出現した神話的英雄像。その姿はもののふの理想像、いくさ神として、後の時代の武士たちの手本となり、理想の武将像(たとえば源義経や上杉謙信、真田信繁など)の原型にもなります。こうしてまず東国武士たちの崇拝が生まれました。そして、武士たちの崇拝の厚い八幡神、諏訪明神を通じて山岳信仰と結びつき、将門はある神と習合されました。

そして、私たちは将門とよく似た、あるあまりに有名な神を見出すことができます。

その神は、皇胤の裔に生まれた将門と同様、日本の生みの親である父神・イザナギノミコトから生まれ、ともに生まれた兄姉とともに「三貴神」と呼ばれました。しかし父から疎まれ、辺境に追放されます(京に上り、官位を得んと誠心誠意尽くしたにも関わらず、その武骨さと不器用さから無位無官のまま下総に追い返された将門のように)。

後には、姉の領分である高天原で過ごしますが、そこでの狼藉を激しく咎められてしまいます(自分なりの信念と言い分に基づいて行動したことが親類縁者とトラブルとなり、ついに叛逆となってしまった将門のように)。

その神は比類ない武勇で、恐ろしい大蛇を手なづけ組み伏せて、宝剣を得ます(鬼怒川、小貝川の乱流を手なづけて、馬と刀剣を得た将門のように)。

当コラムでも何度も取り上げていますからおわかりになったかもしれません。その神とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。

スサノオを祀る八坂神社の祭礼で、氏子や関係者が神社の紋である木瓜紋と切り口が似ているキュウリを口にしない、というのは有名な話。ところが、将門の眷属の末裔と自称する者の多い下総地方の各地でも、やはり将門の家紋(笠印)の一つである九曜紋をキュウリの切り口と見立ててキュウリを食べない風習が残るのです。

さらに、スサノオは高天原を追われて出雲の国つ神の祖となりますが、将門を祀る神社、その代表格である神田神社(神田明神)を見てもわかる通り、出雲系-大国主系の神を祀る神社なのです。将門は、その神話の中の武神のごとき生き様と、不遇で特異な生涯が、いつしかスサノオと重ねられ、習合されて信仰されていったのです。

現在、将門が落命した地であると伝わる茨城県坂東市岩井には、将門の三女・如蔵尼(にょぞうに)が建立した國王神社がひっそりとたたずみます。その素朴で雛びたたたずまいこそ、あるいは平将門の本質かもしれません。

将門落命の地ともされる茨城県坂東市の鄙びたたたずまいの國王神社。将門の木造が本尊です
将門落命の地ともされる茨城県坂東市の鄙びたたたずまいの國王神社。将門の木造が本尊です

参考・参照

将門記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

将門記 大岡昇平(中央公論社)

平将門論 荒井庸夫(大同館書店)

御霊将門 高田祟史(講談社)

平将門の乱 福田豊彦(岩波書店)

國王神社(国王神社) | 平将門公 終焉の地