真冬に兆す春のきらめき・七十二候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」 〈tenki.jp〉|AERA dot. (アエラドット)

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真冬に兆す春のきらめき・七十二候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」

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1月10日より小寒の次候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」となります。冷たくよどんでいた泉(湧水)に、温みや水の動きが出てくる。といった意味です。
寒さの本番はむしろこれから。でも、冬至の頃よりも日脚が伸び日差しにも強さとまぶしさが増していることに、ふと気づきます。ロウバイやビワの花がひっそりと咲き香り、木蓮の銀毛に覆われた花蕾もふくらみはじめ、春の兆しをはっきりと感じる、そんな時期をあらわしています。

でも本当にこの時期水は温かくなるの?

ところで小寒の次候は長慶宣明暦(822年制定)では「鵲始巣(かささぎはじめてすくう)」で、ちょっとややこしいことに宣明暦では冬至の末候(つまり小寒次候の二つ前)が「水泉動(すいせんうごく)」なのです。
さらに宣明暦を全面的にあらためた1685年の貞享暦(本朝七十二候)では、編者渋川春海はこれを「風気乃行(ふうきすなわちゆく)」にあらためます。これは和暦オリジナルの表現で、冬至をピークに停止していた自然にふたたび動きが生じてくることを大気の流れ、風が動き出すと表現したものでしょう。
更につづく宝暦暦で現在の略本暦と同様「水泉動(すいせんうごく)」に。つまり一度冬至の末候で消えた「水泉動」が(貞享暦以降「雪下出麦」に)、二候ずれた小寒次候で復活したことになります。
宣明暦が西暦822年(長慶2年)に制定された古い暦で、800年の時代を経て天文運行ともずれが生じていたこと、江戸時代は小氷河期のような寒い時代であったとも言われ、そうした事情もありずらされたのかもしれません。宝暦暦では全体的に季節のめぐりが一節もしくは二節、後ろ倒しになる改訂がなされています。
ただし、地下水・湧水の平均水温の月次変化を見ますと、実は最も低くなるのは1月で、ややぬるんでくるのは2月になりますので、これでも実は少し季節の体感としては早すぎるのではないか、と言う印象を受けます。現在の東京の水道水の水温変化を見ても、1月がもっとも低くなっています。
それでも、湧水・泉に日差しで暖められた雨水などが流れ込んで、地上の大気の冷たさとの温度差で温かみを感じるようになる、という井戸水や湧き水を使っていた当時の人々の体感が織り込まれているのかもしれません。

真冬、空凍てつきカササギのかけた橋にも霜が降りる

貞享暦では風、宝暦暦・略本暦では水で表わされた春の予兆を、宣明暦ではぐっと趣が異なり鵲(かささぎ)の営巣として表現しています。和暦でこれが廃止されたのは、カササギが日本では一部の地域を除き生息・繁殖が確認できなかったためです。華人趣味ではなく日本の暦として機能することを本願とした本朝七十二候では、大雪次候の虎始交が熊蟄穴に置き変えられたように、日本では見られない生物の項目は廃止されたのでしょう(もっとも、一方で「麋角解(さわしかのつのおつる)」で日本では見られないシフゾウの記述を残すなど、解せないところもあるのですが)。
カササギ(Pica pica)は、鳥綱スズメ目カラス科に属し、別名コウライガラス(高麗烏)、トウガラス(唐烏)、チョウセンガラス(朝鮮烏)などの別名があります。姿は一般的によく見かけるオナガに似ていますが、非常に知能が高く、カラス以上に頭がよいという話も。
日本では佐賀、福岡、長崎、熊本の九州北中部のみで17世紀ごろに大陸から渡来して生息し(現在ではシベリア経由などで七道県で生息が確認されています)、その地域のカササギは天然記念物に指定されています。
冬を迎えるころから営巣・繁殖の準備を始め、早春から春にかけて抱卵・子育てをするため、暦どおりちょうと今時分に巣作りを終えるつがいが多くなります。
そしてカササギといって誰もが思い浮かべるのは、あの大伴家持の名歌ではないでしょうか。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
中納言家持 「新古今集」冬・620
「かささぎの渡せる橋」とは、天の川にかささぎが翼を連ねて作る架け橋のこと。織姫と彦星を逢わせるため、かささぎの群れが翼を連ねて橋を作った、とされる七夕伝説が歌の下敷きとなっています。そんな銀河にかかるかささぎの橋も凍てついて霜で白く輝いている。と、冴え冴えと星がきらめく冬の夜空の様子を歌い、自身の思い人にも思いをはせている情景は美しく、百人一首選中でも指折りの人気の一首ですね。

冬の夜空といえば、「鏡餅」は本来黒く、星空を写したものだった

松の内も今日で終わり。翌日の1月11日には、多くの地域で鏡開きです。
ところで、今の真っ白なお正月の鏡餅は実は明治時代からのもので、江戸時代は真っ黒だったということをご存知ですか?
黒米で作った鏡餅の地肌を宇宙・夜空に、その中にのぞく雑穀の白い粒々を星と見立てて飾っていたのです。明治時代に有色米の根絶運動が執行され、江戸時代に作られていた黒米に雑穀を混ぜて作っていた日本古来の「倭俗の鏡餅」は根絶されてしまったのです。
「倭俗の鏡餅」では餅つきは夜行なわれました。星空のもと、二日間水に浸された臼を土の上に置き、まっ黒な黒米が投げ込まれると、真っ暗な空へ白い湯気が天に昇ってゆきます。杵で搗くたびに、白い湯気が吐息のように吐き出されては天に昇ってゆく。 搗き上がったまっ黒な餅は銅鏡形に丸く整形され、その上に星(北極星?)に見立てた稷団子(きびだんご)が載るのです。これが私たちの先祖が飾っていた鏡餅。真っ白な鏡餅を「鏡」といわれてもどうもピンとこない人が多いと思いますが、黒い餅ならば、鏡に見立てる意味もよくわかるのではないでしょうか。
春を迎える前の寒中。風邪に気をつけて乗り切りましょう。

・取材協力:元「倭俗の鏡餅を再現する会」の調査責任者 性氏(※「倭俗の鏡餅を再現する会」は2010年限りで、現在は在りません。)
参考:国際日本文化研究センター 古事類苑 歳時部 餅搗


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