
戦後80年を経てようやく注目され始めた問題がある。「戦争トラウマ」だ。戦地に赴いた日本兵をはじめ、被害を受けた住民も心に大きな傷を負った。戦後、この傷は不眠や悪夢、アルコール依存、子どもの虐待といったかたちとなって現れた。トラウマは現代にも連鎖しているという。戦争が日本に深く刻みつけたトラウマの実相に迫る。(この記事は朝日新書『ルポ 戦争トラウマ』より抜粋、一部編集したものです。敬称略、年齢は2025年4月1日現在)
【過酷な地上戦】住民の約半数が犠牲となったとされる沖縄の島はコチラ
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壕内で次々と炸裂した手榴弾
沖縄県北谷(ちゃたん)町に暮らす並里千枝子(89)。並里は、沖縄本島の北西に位置する伊江島の生まれだ。
1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、沖縄戦は本格化した。米軍からの艦砲射撃は容赦なく、9歳になったばかりの並里も、伊江島で家族とともに、日本軍が地下約20メートルに造った壕に避難した。その数日後の4月16日には伊江島にも米軍が上陸した。
戦況は悪化する一方だった。壕にいた日本兵は総攻撃に出る前、「絶対捕虜になるな」と、避難していた住民たちに手榴弾を配った。
日本兵たちが出て行くと、壕の中は少し広くなったが、今度は寝る場所の取り合いが始まった。並里の家族は、弾薬が置かれていた横穴に押しやられた。そこは、酸素が薄く感じられ、肌もチクチクした。
日本兵がいなくなった翌日、誰かが手榴弾を炸裂させた。それをきっかけに、「集団自決」が始まる。瞬く間に、あちこちで爆発が起きた。並里の家族は、横穴にいたおかげで助かった。弾薬が入っていた木の箱を盾にして奥に身を沈め、持っていた手榴弾も爆発させなかった。それは、戦地に向かう父が言った「死ぬな」という言葉が胸にあったからだ。
相次ぐ手榴弾の爆発で、壕内には煙が充満した。息ができないほどだった。並里は、たくさんの死体を踏みつけながら入り口の近くまで移動した。暗闇の中で、死にきれない人たちのうめき声が響いていた。
その時だった。「千枝子、助けて。水……」。隣に住んでいた仲良しの友人の声が聞こえてきた。並里は、その友人の名を呼びながら暗闇に歩を進めた。すると突然、冷たい大きな手に左足首をつかまれた。並里は、そこで気を失った。気づくと、祖母に抱かれていた。もう、友人の声は聞こえなかった。母が「水をあげたら、(友人は)ゴクンゴクンと飲んだよ」と言った。
記録では、伊江島は21日に米軍に制圧されている。約2000人の日本兵らはほぼ全滅、村民も約1500人が犠牲になった。
並里が家族とともに逃げ込んだユナパチク壕の「集団自決」は、4月23日に起きたとされる。約80人が亡くなった。
