『BEHIND THE SUN』ERIC CLAPTON
『BEHIND THE SUN』ERIC CLAPTON

 1980年代前半の、わずか数年のあいだに、ロックやポップスをめぐる状況は大きく変化している。激変という言葉を使ってもいいだろう。81年夏の、アメリカでのMTV放送開始と、82年のCD登場。この二つが、とりわけ大きな事件。並行して、楽器や録音機材のデジタル化も急速に進み、いわゆる「80年代の音」が主流となっていく。また、ミュージック・ビデオの出来や、ヴィジュアル・イメージが、レコードを売るための大切な要素と見なされるようになってしまったのだった。

 偶然というべきか、エリック・クラプトンがアルコール依存を克服するための治療を受け、自身のレーベルからの初作品『マネー・アンド・シガレッツ』を発表した時期と、この数年間はぴったりと重なっている。極端ないい方をするなら、心機一転、新たな一歩を踏み出したら、時代の様相がすっかり変わっていたというわけだ。

 少なからずそういった変化を意識していたものと思われるクラプトンは、ジェネシスの中心人物として高い評価を獲得し、ソロ・アーティストとしても大きな成功を収めていたフィル・コリンズをプロデューサーに迎えて、次の作品『ビハインド・ザ・サン』を仕上げている(85年春発表)。

 パティとの関係が悪化していたことを逆の意味での糧として、《セイム・オールド・ブルース》、《シーズ・ウェイティング》、《ジャスト・ライク・ア・プリズナー》など質の高い曲を書き上げ、なんとギター・シンセサイザーにまで手を出した。しかし、完成したテープを聴いた発売元のワーナーは、『マネー・アンド・シガレッツ』の結果に満足していなかったこともあり、「これでは売れない」と判断。大幅な修正を要求してきたため、数曲を新たに録音したというエピソードが残されている。このときクラプトンは、屈辱的なこととも感じたが、一歩引いて、状況を受け入れてみようと思ったという。

 追加録音を担当したのは、ワーナーで数多くの名盤、ヒット作品に関わってきたテッド・テンプルマンとレニー・ワロンカー。テキサス出身のシンガー・ソングライター、ジェリー・リン・ウィリアムスの《フォーエヴァー・マン》などが持ち込まれ、レコーディングには、スティーヴ・ルカサー、ジェフ・ポーカロ、ネイザン・イーストなどロサンゼルス系のスタジオ・ミュージシャンが起用されたが、どの仕事からもクラプトンへの敬意が感じられ、結果的に彼の持ち味を損なうことのないものに仕上げられている。意外な形で出会ったウィリアムスとはその後も交流をつづけていくこととなるのだ。

《フォーエヴァー・マン》では、ミュージック・ビデオも制作されている。長いコートを着てギターを弾き、歌うクラプトンの姿をモノクロの映像でとらえた、あの印象的な作品だ。「音楽は目を閉じて聴くべきもの」と考えていた彼は、この点でも、発売元サイドに譲歩していた。

 ちなみに、そのビデオを監督したのは、ケヴィン・ゴドリー&ロル・クレーム。振り返ってみると、クラプトンがヤードバーズを去るきっかけの一つとなった《フォー・ユア・ラヴ》を書いたのは、のちに彼らと10ccを結成することになるグレアム・グールドマンだった。皮肉な巡りあわせといえるかもしれない。[次回2/25(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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