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●「貧困女子高生」で浮上した課題ネット時代に当事者を守る努力とは?

 最初は8月18日のNHK「ニュース7」だった。リード部分でスタジオに「子どもの貧困 6人に1人」という文字が強調されて「おっ……」と注目した。筆者もテレビ報道で「貧困」の問題をライフワークとし、折に触れて伝えてきたからだ。貧困という分野は偏見も根強いので伝え方が難しい。貧困の当事者を登場させる時にはかなり慎重な注意が必要だ。テレビに登場した当事者の画像があちこちで心ないコメントつきで増産されてしまうことがあるからだ。

 ニュースは、神奈川県が主催する「子どもの貧困」の催しで委員などを務める女子高生の「うららさん」が自らの体験談を語って広く理解を求めたという内容だ。取材カメラは彼女の自宅や通う高校でも撮影し、日常生活やインタビューなどを撮影。エアコンがない部屋で首の周りに冷却材を巻いてしのいでいるとか、パソコンが必要な授業でパソコンを買ってもらえずに練習用のキーボードだけ母親からプレゼントされたというエピソードなどが出てくる。貧困ゆえに将来は専門学校に進んでイラストレーターになる夢を諦めなければならなくなりそうなことなどが報告された。放送では彼女の部屋にあるさまざまなDVDやソフトなどが映り込んでいたが、特にボカシなどを入れず放映していた。ニュースを伝える意義を評価しつつも「これ、大丈夫かな?」と見ていて不安を覚えた。

 貧困の問題をテレビで伝える時はこうした物品について視聴者に「そんなものを買う余裕があるのに貧困なのか」などと指摘されて不毛な展開になることがよくあったからだ。

 予感は的中した。「うららさん」の部屋で映っていたソフトがアニメ「ワンピース」のものであることや、新作映画が上映されるたびに何度も見る熱狂的ファンであることがネットで暴露され、1000円以上のランチを楽しんだことを伝えるつぶやきや、同級生らしき人物が学校での彼女を特定した形で日常のネガティブな情報を暴露。「そんな余裕があるなら貧困じゃない」「貧困というのは捏造」という憶測があっという間に広がった。放送ではファーストネームしか出していなかったのに実名や自宅写真までネットにアップされた。「エアコンはないと言っていたが、実際はあった」など偽情報まで出て、自称「ネットニュース」のサイトに書き込まれていった。

●ニュースが報道の危うさの象徴に丁寧に描いたのはドキュメンタリー

 「貧困女子高生」が示したことは3つの点で今のメディア事情のリスクを象徴的に物語る。第1はテレビニュースの映像がネット上で悪意ある形で貼り付けられて炎上することだ。当事者本人が顔出しでテレビ撮影を承諾したとしても、撮影や編集などで番組側が慎重にケアしないと本人が深く傷つく場合がある。2年前、BPOの人権委員長が「インタビューはなるべく顔出しで」とテレビ側に努力を求める委員長談話を公表したが、こうした事態を視野に入れた発言とはとてもいえない。個人への人権侵害のリスクを軽視した能天気な談話だったと今になって痛感する。本人が承諾しても未成年の場合には貧困などバッシング対象になりやすい分野では原則顔出しで放送しないという選択もテレビは考えるべき時代だろう。

 第2は、ミドルメディアと呼ばれるネット上の「まとめサイト」、自称「ニュースサイト」があまりにもいい加減な実態だということだ。ジャーナリズムとしての倫理教育や訓練を経ずにどこかの社の報道に憶測をつけただけというケースなど危うい現状が次々に明らかになった。今回、放送・芸能に関する雑誌を出しているサイゾー社が運営する「ビジネスジャーナル」がこの「貧困女子高生」について「少女の部屋にはエアコンらしきものがしっかり映っている」と虚偽の情報を伝えたほか、実際には実施していないのにNHKに対して問い合わせをしたような捏造記事を載せていたことも発覚した。事実ではないことを伝えながら、シェアやリツイート、PV数を増やそうとするこうしたサイトが事実に基づかないで誹謗中傷を拡大させかねない実態が明るみに出た。

 テレビのニュースでも「ネットで話題」というだけで「事実」として引用するものが目立っているが、どこまでが出所が信頼できる情報なのか。ネットとテレビが互いに引用し合ってオリジナル情報が不明なこともあるので注意しないと誤報のお先棒を担いでしまう。

 第3は、日本では報道機関の関係者さえ、貧困というと相対的貧困と絶対的貧困を混同し、印象論や感情論に終始する現状を抜けられない実態がある。

 「相対的貧困」とは、先進国における貧困の多くが該当し、たとえば多くの人が大学や専門学校などの高等教育を受けるのが当たり前の環境でその「当たり前」ができないならば貧困と位置づける考え方で、日本政府もこの指標を使っている。だが「うららさん」のように明らかに相対的貧困の該当者までランチやDVDのひとつをとって貧困かどうかを論じること自体、ナンセンスだ。

 こうしたなか「子どもの貧困」がテーマの2つのドキュメンタリー番組が光っていた。1つは「17歳の先生。〜子どもの貧困を越える〜」(北海道文化放送)。札幌で生活保護を受ける母子家庭で育ちながら、子どもの貧困解消のために同じような子どもへの学習支援に精を出す女子高生が主人公だ。もう1つは「つかさ18歳 人生を取り戻りたい〜被虐待児2年間の記録〜」。過酷な虐待を受けた経験がありながら児童養護施設で前向きに生きる女子高生の退園までを追う。 

 ニュースでは省略されがちな個々の事情や背景を1時間ほどの番組枠で丁寧に描き、感動的だった。「ニュース7」の「うららさん」に比べて、人間の感情が伝わった。貧困という複雑な問題で説得力を持って伝えるにはこのくらい時間が必要ということだろう。

 他方、短いニュースだと「貧困でも夢に向かってがんばっている」というステレオタイプに当てはめて伝えがちだ。「貧困女子高生」の炎上は、そうした底の浅さへの違和感を視聴者が見透かした末とも感じる。

 「障害者」ではNHK「バリバラ」が感動・美談のステレオタイプからの脱却を問題提起したが、「貧困者」の伝え方も見直すべき時代が来ている。

●みずしま・ひろあき 上智大学文学部教授(テレビ報道論)、元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター兼解説委員、札幌テレビ・ロンドン特派員、ベルリン特派員。近著に『内側から見たテレビ』。