こういう現状に対する、いわば苦肉の策として第三者機関のBPOが存在するわけでしょ。これはね、欧米にも、その他の民主主義国にもないユニークな存在なの。日本の放送界の発明品だね。その誇りを持ってほしいな。

●放送の仕事はひとつの事実に多様性を与えること

 民主主義って、多様性なんじゃないの。てんでんばらばら、何でもあり。そりゃそうだよ、政府の号令一下でも、法律の条文のままでもないんだから。

 ただね、ここんところは間違えやすいんだけど、事実には多様性はないの。いわゆる5W1Hで定義される事実は、政治や経済の問題でも、事件や事故でも、事実はひとつしかない。そこはきちんと押さえなきゃいけない。多様性はその先、その出来事をどう見るか、どう批評するか、どう描くかのところで発揮される。

 スマホやネットで写真や動画も送れるようになって、マスメディア、とくにテレビはもう速報性で勝てないんじゃないか、なんて言われたけど、そりゃ勝てないよ。勝つ必要もない。私がドライブレコーダーをつけて走っていて、目の前で目撃した事故や犯罪とか、隕石や竜巻の映像をネットに載せたら、それがいちばん速いに決まってる。

 でも、それは事実を、それも私のドライブレコーダーに写った一面を伝えただけで、見解でも批評でも描写でもない。放送の仕事は、事実の発生したあとから始まるんです。報道は酔っ払い運転の背景を探るだろうし、バラエティーは隕石なのか、未確認飛行物体なのかで盛り上がったり、ドラマは犯人の寒々しい生いたちなり、もつれた人間関係なりを描いていくかもしれない。制作者が10人いたら、10人ともちがう番組を作るでしょ。ひとつの竜巻という事実から、自然現象にいく人もいれば、予測技術にいく人、過去の竜巻の歴史にいく人、吹き飛ばされた家の下敷きになった犠牲者にいく人、さまざまだよね。見解・批評・描写をいろいろやる、それが多様性。

 私が検証委員会にいたころ、テレビの光市母子殺害事件報道について公表した意見書がある。あのなかで言ったのは、その多様性の欠如のことね。「巨大なる凡庸」って指摘した覚えがあるけれど、各局、各番組が被害者家族・検察対被告・弁護団の構図に乗っかって、一方的一律に感情的な報道をくり返したでしょ。戦争を煽った時代とちがうんだから、そうあることじゃないと思うけど、ひと言疑問を呈するとしたらBPOしかないんじゃない? 

 番組向上に多少は役立つとしたら、あの程度ですよ。

次のページ